を話してくれればどんなに嬉しいだろうと答えた。あの夕方は、いつもよりもよほど根強く魔物のこころに喰い入ったに相違ない。私は眼前のその幽霊と相対して、五分間ばかりもその日の平凡な出来事を話していたように、かすかに記憶している。
「気違いだ。可哀そうに……。それとも酔っているのかもしれない。マックス、その人を宅《うち》まで送り届けてやれ」
それはたしかに、ウェッシントン夫人の声ではなかった。
私がひとりで喋べっているのを立ち聴きしていた先刻の二人の男が、私を介抱しようとして戻って来た。かれらは非常に親切で、思いやりがあった。かれらの言葉から察すると、私がひどく酔っているのだと思っているらしかった。私はあわててかれらに礼を言って、馬を走らせてホテルに帰って、大急ぎで衣服を改めて、マンネリング家へ行ったときは約束の時間よりも五分遅れていた。わたしは闇夜であったからというのを口実にして弁解したが、キッティに恋びとらしくない遅刻を反駁されながら、とにもかくにも食卓に着いた。
食卓ではすでに会話に花が咲いていたので、わたしは彼女のご機嫌を取り戻そうとして、気のきいた小咄《こばなし》をしていた時、食卓の端《はし》の方で赤い短い頬鬚《ほおひげ》をはやした男が、ここへ来る途中で見知らない一人の気違いに出逢ったことを、尾鰭《おひれ》をつけて話しているのに気がついた。その話から推《お》して、それは三十分前の出来事を繰り返しているのであることがわかった。その物語の最中に、その男は商売人の噺家《はなしか》がするように、喝采を求めるために一座をずらりと見廻した拍子に、彼とわたしの眼とがぴったり出合うと、そのまま口をつぐんでしまった。一瞬間、恐ろしい沈黙がつづいた。その赤鬚の男は「そのあとは忘れた」というような意味のことを口のうちでつぶやいていた。それがために、彼は過去六シーズンのあいだに築き上げた上手な話し手としての名声を台なしにしてしまった。私は心の底から彼を祝福してから、料理の魚を食いはじめた。
食卓はずいぶん長い間かかって終わった。わたしは全く名残り惜しいような心持ちでキッティに別れを告げた。――たぶん、また戸の外には幽霊が私の出て来るのを待っているのだろうと思いながら。――例の赤鬚の男(シムラのヘザーレッグ先生として私に紹介された)が途中までご一緒に参りましょうと言い出したので、
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