二人の男が話し合ってゆくのを耳にした。
「まったく不思議なこともあるものだな」と、一人が言った。
「どうしてあの車の走った跡がみんな無くなってしまったのだろう。君も知っている通り、うちの女房はばかばかしいほどにあの女が好きだったのだ。(僕にはどこがいいのかわからなかったがね。)それだもんだから、どうしてもあの女の古い人力車と苦力とを手に入れたいと強請《せび》るのでね。僕は一種の病的趣味だと言っているのだが、まあ奥方の言う通りにしたというわけさ。ところが、ウェッシントン夫人に雇われていたその人力車の持ちぬしが僕に話したところによると、四人の苦力は兄弟であったが、ハードウアへ行く路でコレラにかかって死んでしまい、その人力車は持ちぬしが自分で毀《こわ》してしまったというのだが、君はそれを信じるかね。だから、その持ちぬしに言わせると、死んだ夫人の人力車はちっとも使わないうちに毀したので、だいぶ損をしたというのだが、どうも少し変ではないか。ねえ、君。あの可哀そうな、可愛らしいウェッシントン夫人が自分自身の運命以外に、他の人間の運命をぶちこわすなどとは、まったく考えられないことではないか」
 私はこの男の最後の言葉を大きい声で笑ったが、その笑い声に自分でぞっとした。それではやはり人力車の幽霊や、幽霊が幽霊を雇い入れるなどという事があるのであろうか。ウェッシントン夫人は苦力らにいくらの賃金を払うのであろうか。かれら苦力は何時間働くのであろうか。そうして、かれら苦力はどこへ行ったのであろうか。
 すると、私のこの最後の疑問に対する明白なる答えとして、まだ黄昏《たそがれ》だというのに、またもや例の幽霊がわたしの行く手をふさいでいるのを見た。亡者《もうじゃ》は足が速《はや》く、一般の苦力さえも知らないような近路をして走り廻る。私はもう一度大きい声を立てて笑ったが、なんだか気違いになりそうな気がしたので、あわててその笑い声をおさえた。いや、私は人力車の鼻のさきで馬を止めると、慇懃《いんぎん》にウェッシントン夫人にむかって、「今晩は」と言ってしまったところをみると、すでにある程度までは気が違っていたのかもしれない。彼女の返事は、私がよく知り過ぎているほどに聞きなれた例の言葉であった。わたしは彼女の例の言葉をすっかり聞いてから、もうその言葉は前から幾たびか聞いているから、もっと何かほかのこと
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