情なキッティはその優美な小さい頭を空中に飛び上がらせながら、音楽堂の方向へ馬を駈けさせた。あとで彼女自身も言っていたが、馬を駈けさせながらも、私があとからついて来るものだとばかり思っていたそうである。ところが、どうしたというのであろう。私はついてゆかなかった。私はまるで気違いか酔っ払いのようになっていたのか、あるいはシムラに悪魔が現われたのか、わたしは自分の馬の手綱を引き締めて、ぐるりと向きを変えると、例の人力車もやはり向きを変えて、コムバーメア橋の左側の欄干に近いところで私のすぐ目の前に立ちふさがった。
「ジャック。私の愛するジャック!」(その時の言葉はたしかにこうであった。それらの言葉は、わたしの耳のそばで呶鳴り立てられたように、わたしの頭に鳴りひびいた。)「何か思い違いしているのです。まったくそうです。どうぞ私を堪忍《かんにん》してください、ジャック。そしてまたお友達になりましょう」
 人力車の幌《ほろ》がうしろへ落ちると、わたしが夜になると怖がるくせに毎日考えていた死そのもののように、その内にはケイス・ウェッシントン夫人がハンカチーフを片手に持って、金髪の頭《かしら》を胸のところまで垂れて坐っていた。
 どのくらいの間、わたしは身動きもしないでじいっと見つめていたか、自分にも分からなかったが、しまいに馬丁が私の馬の手綱をつかんで、病気ではないかと訊《き》いたので、ようようわれにかえったのである。私は馬からころげ落ちんばかりに、ほとんど失神したようになってペリティの店へ飛び込んで、シェリー・ブランデイを一杯飲んだ。
 店の内には二組か三組の客がカフェーのテーブルをかこんで、その日の出来事を論じていた。この場合、かれらの愚にもつかない話のほうが、私には宗教の慰藉《いしゃ》などよりも大いなる慰藉になるので、一も二もなくその会話の渦中に投じて、喋《しゃ》べったり、笑ったり、鏡のなかへ死骸のように青くゆがんで映った人の顔にふざけたりしたので、三、四人の男はあきれてわたしの態度をながめていたが、結局、あまりにブランデイを飲み過ぎたせいだろうと思ったらしく、いい加減にあしらって私を除《の》け者にしようとしたが、私は動かなかった。なぜといって、そのときの私は、日が暮れて怖くなったので夕飯の仲間へ飛び込んでくる子供のように、自分の仲間が欲しかったからであった。
 それから私は
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