路とコムバーメア橋との間の道いっぱいに響き渡ったので、七、八人の者がこんな乱暴な真似をしているのだと思ったが、結局それは私の名を呼んでいるのではなくて、何か歌を唄っているに相違ないと考えた。
 そのとき、たちまちにペリティの店の向う側を黒と白の法被《はっぴ》を着た四人の苦力《クーリー》が、黄いろい鏡板の安っぽい出来合い物の人力車を挽《ひ》いて来るのに気がついた。そうして、懊悩《おうのう》と嫌悪《けんお》の念を持って、わたしは去年のシーズンのことや、ウェッシントン夫人のことを思い出した。
 それにしても、彼女はもう死んでしまって、用は済んでいるはずである。なにも黒と白の法被を着た苦力をつれて、白昼の幸福を妨げにこなくてもいいわけではないか。それで私は、まずあの苦力らの雇いぬしが誰であろうと、その人に訴えて、彼女の苦力の着ていた法被を取り替えるように懇願してみようと思った。あるいはまた、わたし自身がかの苦力を雇い入れて、もし必要ならばかれらの法被を買い取ろうと思った。とにかくに、この苦力らの風采がどんなに好ましからぬ記憶の流れを喚起《かんき》したかは、とても言葉に言い尽くせないのである。
「キッティ」と、私は叫んだ。「あすこに死んだウェッシントン夫人の苦力がやって来ましたよ。いったい、今の雇いぬしは誰なんでしょうね」
 キッティは前のシーズンにウェッシントン夫人とちょっと逢ったことがあって、蒼ざめている彼女については常に好奇心を持っていた。
「なんですって……。どこに……」と、キッティは訊いた。「わたしにはどこにもそんな苦力は見えませんわ」
 彼女がこう言った刹那《せつな》、その馬は荷を積んだ驢馬《ろば》を避けようとしたはずみに、ちょうどこっちへ進行して来た人力車と真向かいになった。私はあっ[#「あっ」に傍点]と声をかける間もないうちに、ここに驚くべきは、彼女とその馬とが苦力の車を突きぬけて通ったことである。苦力も車もその形はみえながら、あたかも稀薄なる空気に過ぎないようであった。
「どうしたというんです」と、キッティは叫んだ、「何をつまらないことを呶鳴《どな》っているんです。わたしは婚約をしたからといって、別に人間が変わったわけでもないんですよ。驢馬と露台との間にこんなに場所があったのね。あなたはわたしが馬に乗れないとお思いなんでしょう。では、見ていらっしゃい」
 強
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