世界怪談名作集
廃宅
エルンスト・テオドーア・アマーデウス・ホフマン Ernst Theodor Amadeus Hoffmann
岡本綺堂訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大勢《おおぜい》

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(例)[#「あっ」に傍点]
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 諸君はすでに、わたしが去年の夏の大部分をX市に過ごしたことを御承知であろう――と、テオドルは話した。
 そこで出逢った大勢《おおぜい》の旧友や、自由な快闊な生活や、いろいろな芸術的ならびに学問上の興味――こうしたすべてのことが一緒になって、この都会に私の腰をおちつかせてしまったが、まったく今までにあんなに愉快なことはなかった。わたしは一人で街を散歩して、あるいは飾窓の絵や、塀のビラを眺め、あるいはひそかに往来の人びとの運勢をうらなったりして、私の若い時からの嗜好を満足させていた。
 このX市には、町の門に達する広い並木の通りがあって、美しい建築物が軒をならべていた。いわばこの並木通りは富と流行の集合地である。宮殿のような高楼の階下は、贅沢品を売りつけようとあせっている商店で、その上のアパートメントには富裕な人たちが住んでいた。一流のホテルや外国の使節などの邸宅も、みなこの並木通りにあった。こう言えば、諸君はこうした町が近代的生活と悦楽との焦点になっていることを容易に想像するであろう。
 私はたびたびこの並木通りを散歩しているうちに、ある日、ほかの建築物に比《くら》べて実に異様な感じのする一軒の家をふと見つけた。諸君、二つの立派な大建築に挟まれて、幅広の四つの窓しかない低い二階家を心に描いてごらんなさい。その二階はとなりの階下の天井より僅かに少し高いくらいで、しかも荒るるがままに荒れ果てた屋根や、ガラスの代りに紙を貼った窓や、色も何も失っている塀や、それらが何年もここに手入れをしないということを物語っていた。
 これが富と文化の中心地のまんなかに立っているのであるから、実に驚くではないか。よく見ると、二階の窓に堅くドアを閉め切ってカーテンをおろしてあるばかりか、往来から階下の窓を覗かれないように塀を作ってあるらしい。隅の方についている門が入り口であろうが、掛け金や錠前らしいものもなければ、呼鈴《ベル》さえもない。これは空家《あきや》に相違ないと私は思った。一日のうち、なんどきそこを通っても、家内に人間が住んでいるらしい様子は更に見えなかった。
 私がしばしば不思議な世界を見たと言って、自分の透視眼を誇っていることは、どなたもよく御承知であろう。そうして、諸君はそんな世界を常識から観て、あるいは否定し、あるいは一笑に付せらるるであろう。私自身もあとになって考えると、それが一向不思議でもなんでもないことを発見するような実例がしばしばあったことを、白状しなければならない。そこで今度も最初のうちは、私をおどろかすようなこの異様な廃宅もまた、いつもの例ではないかと考えたのである。しかしこの話の要点を聞けば、諸君もなるほどとうなずかれるに相違ない。まずこれからの話をお聴きください。
 ある日、当世風の人たちがこの並木通りを散歩する時刻に、私は例によってこの廃宅《はいたく》の前に立って、じっと考え込んでいると、私のそばへ来て私を見つめている人のあることを突然に感じた。その人はP伯爵であった。伯爵は私にむかって、この空家はとなりの立派な菓子屋の工場である、階下の窓の塀はただ窯《かまど》のためにこしらえたもので、二階の窓の厚いカーテンは商売物の菓子に日光が当たらないようにおろしてあるまでのことで、別になんの秘密があるわけでは無いと教えてくれた。
 それを聞かされて、私はバケツの冷たい水をだしぬけにぶっかけられたように感じた。しかし、それが菓子屋の工場であるというP伯爵の話を何分にも信用することが出来なかった。それはあたかもお伽噺《とぎばなし》を聞いた子供が、本当にあったことだと信じていながらも、ふとした気まぐれにそれを嘘だと思ってみるような心持ちであった。しかし私は自分が馬鹿であるということに気がついた。かの家は依然としてその外形になんの変化もなく、いろいろの空想は自然に私の頭の中から消えてしまった。ところが、ある日偶然の出来事から再び私の空想が働き出すようになったのである。
 私はいつもの通りにこの並木通りを散歩しながら、かの廃宅の前まで来ると、無意識に二階のカーテンのおりている窓をみあげた。その時、菓子屋の方に接近している最後の窓のカーテンが動き出して、片手が、と思う間に一本の腕がその襞《ひだ》の間から現われた。私は早速にポケットからオペラグラスをとり出して見ると、実に肉付きのよい美しい女の手で、その小指には大きいダイヤモンドが異様にかがやき、その白いふくよかな腕には宝石をちりばめた腕環《うでわ》がかがやいていた。その手は妙な形をしたひょろ長いガラス罎《びん》を窓の張り出しに置いて、再びカーテンのうしろへ消えてしまった。
 それを見て、わたしは石のように冷たくなって立ち停まったが、やがて極度の愉快と恐怖とが入りまじったような感動が電流の温か味をもって、からだじゅうを流れ渡った。私はこの不思議な窓を見あげているうちに、おのずと心の奥から希望の溜め息があふれ出してきたのである。しかも再び我れにかえってみると、私の周囲には物珍らしそうな顔をして、かの窓をみあげている見物人がいっぱいに突っ立っているではないか。
 私は腹が立ったので、誰にも覚られないように、その人垣をぬけてしまった。すると、今度は常識という平凡きわまる悪魔めが私の耳のそばで、おまえが今見たのは日曜日の晴着《はれぎ》を着た金持の菓子屋のおかみさんが、薔薇《ばら》香水か何かをこしらえるために使ったあきびんを窓の張り出しに置いただけのことだとささやき始めた。考えてみると、あるいはそうかもしれない。しかもそのとたんに、非常な名案が浮かんだので、私は路《みち》を引っ返して、鏡のように磨き立てた菓子屋の店へはいった。まずチョコレートを一杯注文して、それを悠《ゆう》ゆうと飲みながら、私は菓子屋の職人に言った。
「君は隣りにうまい建物を持っているじゃあないか」
 相手は私の言葉の意味がわからないと見えて、帳場に寄りかかりながら怪訝《けげん》らしい微笑を浮かべて私を見ているので、私はあの空家を工場にしているのは悧口《りこう》なやりかただと、私の意見をくり返して言った。
「ご冗談でしょう、旦那。いったい隣りの家がわたしたちの店の物だなんて、誰からお聞きになったんです」と、職人は口を切った。
 わたしが探索の計画は不幸にして失敗したのである。しかし、この男の言葉から察すると、あの空家には何かの曰《いわ》くがあるらしいような気もするのであった。諸君は私がこの男から、かの廃宅について左のような話を聞き出して、どんなに愉快を感じたかを想像することが出来るであろう。
「わたしもよくは知りませんが、なんでもあの家はZ伯爵の持ち物だということだけはたしかです。伯爵の令嬢は当時ご領地の方に住んでいて、もう何年もここへお見えになりません。人の話を聞くと、あの家もまだ当今のような立派な建物ができない昔には、なかなか洒落たお邸で、この並木通りの名物だったそうでしたが、今じゃあもう何年となく空家同様に打っちゃらかしてあるんです。それでもあすこには、人に逢うのが嫌いだという偏屈な執事の爺《じい》さんと、馬鹿に不景気な犬がいましてね。犬の奴め、時どきに裏の庭で月に吠《ほ》え付いていますよ。世間じゃあ幽霊が出るなんて言っていますが、実のところ、この店を持っているわたしの兄貴とわたしとが、まだ人の寝しずまっている頃から起きて、菓子の拵《こしら》えにかかっていると、塀の向う側で変な音のするのを毎日聞くことがありますが、それがごろごろというように響くかと思うと、また何か掻きむしるような音がして、なんともいえない忌《いや》な心持ちがしますよ。ついこの間なども、変な声でなんだか得体《えたい》のわからない唄を歌っていました。それがたしかに婆さんの声らしいんですけれど、そのまた調子が途方もなく甲高《かんだか》で、わたしもずいぶんいろいろの国の歌い手の唄を聴いたことがありますが、今まであんな調子の高い声は聴いたことがありません。自然に身の毛がよだってきて、とてもあんな気ちがいじみた化け物のような声をいつまで聴いてはいられなかったので、よくはっきりとはわかりませんが、どうもそれがフランス語の唄のように思われました。それからまた、往来のとぎれた真夜中に、この世のものとは思われないような深い溜め息や、そうかと思うと、また気ちがいのような笑い声がきこえてくることもあるんです。なんなら、旦那。わたしの家の奥の部屋の壁に耳を当ててごらんなさい。きっと隣りの家の音がきこえますよ」
 こう言って、彼はわたしを奥の部屋へ案内して、窓から隣りを指さした。
「そこの塀から出ている煙突が見えましょう。あの煙突から時どき猛烈に煙りを噴《ふ》き出すので、どうも火の用心が悪いといって、家《うち》の兄貴がよくあの執事と喧嘩をすることがあるんです。それがまた、冬ばかりじゃあない、てんで火の気なんぞのいらないような真夏でさえもなんですからね。あの老爺《じじい》は食事の支度をするんだと言っているんです。あんな獣物《けだもの》が何を食うんだか知りませんけれど、煙突から煙りがひどく出るときには、いつでも家じゅうに変な匂いがするんですよ」
 ちょうどその時に店のガラス戸があいたので、菓子屋の職人は急いで店の方へ出て行って、今はいって来た客に挨拶しながら、ちらりと私の方を見かえって眼顔で合図したので、私はすぐにその客が例の不思議な邸の執事であることを直覚した。鷲鼻で、口を一文字に結んで、猫のような眼をして、薄気味の悪い微笑を浮かべて、木乃伊《みいら》のような顔色をしている、痩形の小男を想像してごらんなさい。さらに彼はその髪に古風な高い髢《かもじ》を入れて、その先きをうしろに垂らした上に、こてこてと髪粉をつけ、ブラシはよく掛けてあるがもうよほどの年数物らしい褐色の上衣《うわぎ》をきて、灰色の長い靴下に、バックルのついた爪さきの平たい靴をはいている。彼は痩せているにもかかわらず、すこぶる頑丈な骨ぐみをして、手は大きく、指は長く、かつ節高《ふしだか》で、しっかりした足取りで帳場の方へ進んで行ったが、やがてどことなく間のぬけたような笑いを見せながら「砂糖漬けのオレンジを二つと巴旦杏《はたんきょう》を二つと、砂糖のついた栗を二つ」と鼻声で言う、この小男の老人の姿をこころに描いてごらんなさい。
 菓子屋の職人は私に微笑を送りながら、老人の客に話しかけた。
「どうもあなたはお加減がよろしくないようですね。これもお年のせいとでもいうんでしょうな。どうもこの年というやつは、われわれのからだから力を吸い取るんでね」
 老人はその顔色を変わらせなかったが、その声を張りあげた。
「年のせいだと……。年のせいだと……。力がなくなる……。弱くなる……。おお……」
 彼はその関節が砕けるかと思うばかりに両手を打ち鳴らすと、店全体がびりびりと震えて、棚のガラス器や帳場はがたがたと揺れた。それと同時に、ものすごい叫び声がきこえたので、老人は自分のあとからついて来て足もとに寝ころんでいる黒犬に近寄った。
「畜生! 地獄の犬め」
 例の哀れな調子で唸《うな》るように呶鳴りながら、栗一つを袋から出して犬に投げてやると、かれは人間のような悲しそうな声を出したが、急におとなしく坐って、栗鼠《りす》のようにその栗をかじり始めた。やがて犬が小さな御馳走を平らげてしまうと、老人もまた自分の買物を済ませた。
「さようなら」と、老人はあまりの痛さに相手が思わずあっ[#「あっ」に傍点]と言ったほどに、菓子屋の職人の手を強く握りしめた。「弱い年寄りは、おまえさんがいい夢をみるように祈っているよ、お隣りの大将」
 老人は
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