と、女の顔が鏡のなかにありありと現われて来た。
「あっ。女の顔が……」という私の叫び声に、博士は鏡のなかを見て言った。
「私にはなんにも見えませんね。しかし実を言うと、鏡を見たときに私もなんとなくぶるぶる悪寒《さむけ》がしました。もっとも、すぐになんでもなくなりましたが……。では、もう一度やって見てください」
私はもう一度その鏡に息を吹きかけると、そのとたんに博士はわたしの頸《くび》のうしろへ手をやった。女の顔は再び現われた。わたしの肩越しに鏡に見入っていた博士はさっと顔色を変えて、私の手からその鏡を奪うように引っ取って、細心にそれを検《あらた》めていたが、やがてそれを机の抽斗《ひきだし》に入れて錠をかけてしまった。それからしばらく考えたのちに、彼はわたしの所へ戻って来た。
「では、早速にわたしの指図通りにして下さい。実のところ、どうもまだあなたの幻影の根本が呑み込めないのですが、まあ、なるたけ早くあなたにそれを知らせることが出来るようにしたいと思っています」と、博士は言った。
博士の命令どおりに生活するのは、私にとって困難なことではあったが、それでも無理に実行すると、たちまちに規則正しい仕事と営養物の効果があらわれて来た。それでもまだ昼間も――静かな真夜中には特にそうであったが――怖ろしい幻影に襲われることもあり、愉快な友達の一座にいて、酒を飲んだり、歌を唄ったりしている時ですらも、灼《や》けただれた匕首《あいくち》がわたしの心臓に突き透るように感じる時もあった。そういう場合には、わたしの理性の力などは何の役にも立たないので、よんどころなくその場を引き退がって、その昏睡状態から醒めるまでは再び友達の前へ出られないようなこともあった。
ある時、こういう発作《ほっさ》が非常に猛烈におこって、かの幻影に対する不可抗力的の憧憬がわたしを狂わせるようになったので、私は往来へ飛び出して不思議な家の方へ走ってゆくと、遠方から見た時には、固くとじられた鎧戸の隙間から光りが洩れているらしく思われたが、さて近寄って見ると、そこらはすべて真っ暗であった。わたしはいよいよ取りのぼせて入り口のドアに駈けよると、そのドアはわたしの押さないうちにうしろへ倒れた。重い息苦しい空気のただよっている玄関の、うす暗い灯のなかに突っ立って、私は異常の怖ろしさと苛立《いらだ》たしさに胸をとどろかせていると、たちまちに長い鋭いひと声が家のなかでひびいた。それは女の喉《のど》から出たらしい。それと同時に、わたしは封建時代の金色《こんじき》の椅子や日本の骨董品に飾り立てられて、まばゆいばかりに照り輝いている大広間に立っていることを発見した。わたしのまわりには強い薫《かお》りが紫の靄《もや》となってただよっていた。
「さあ、さあ、花聟《はなむこ》さま。ちょうど、結婚の時刻でござります」
女の声がした時に、私は定めて盛装した若い清楚な貴婦人が紫の靄のなかから現われて来るものと思った。
「ようこそ、花聟さま」と、ふたたび金切り声がひびいたと思う刹那《せつな》、その声のぬしは腕を差し出しながら私のほうへ走って来た。寄る年波と狂気とで醜《みにく》くなった黄色い顔がじっと私に見入っているのである。私は怖ろしさのあまりに後ずさりをしようとしたが、蛇のように炯《けい》けいとした鋭い彼女の眼は、もうすっかり私を呪縛してしまったので、この怖ろしい老女から眼をそらすことも、身をひくことも出来なくなった。
彼女は一歩一歩と近づいて来る。その怖ろしい顔は仮面であって、その下にこそまぼろしの女の美しい顔がひそんでいるのではないかという考えが、稲妻《いなずま》のように私の頭にひらめいた。その時である。彼女の手が私のからだに触れるか触れないうちに、彼女は大きい唸り声を立てて私の足もとにばたりと倒れた。
「はははは。悪性者《あくしょうもの》めがおまえの美しさにちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]を出しているな。さあ、寝てしまえ、寝てしまえ。さもないと鞭《むち》だぞ。手ひどいやつをお見舞い申すぞ」
こういう声に、私は急に振り返ると、かの老執事が寝巻のままで頭の上に鞭を振り廻しているではないか。老執事はわたしの足もとに唸っている彼女を、あわやぶちのめそうとしたので、私はあわててその腕をつかむと、老執事は振り払った。
「悪性者め、もしわしが助けに来なければ、あの老いぼれの悪魔めに喰い殺されていただろうに……。さあ、すぐにここを出て行ってもらおう」と、彼は呶鳴った。
わたしは広間から飛んで出たが、なにしろ真っ暗であるので、どこが出口であるか見当《けんとう》がつかない。そのうちに私のうしろでは、ひゅうひゅうという鞭の音がきこえて、女の叫び声がひびいて来た。
たまらなくなって、私は大きい声を出して救いを求めようとした時、足もとの床がぐらぐらと揺れたかと思うと、階段を四、五段もころげ落ちて、いやというほどにドアへ叩きつけられながら、小さい部屋のなかへ俯伏《うつぶ》せに倒れてしまった。そこには今あわてて飛び出したらしい空《から》の寝床や、椅子の背に掛けてある褐色の上衣《うわぎ》があるので、私はすぐにここが老執事の寝室であることをさとった。すると、あらあらしく階段を駆け降りて来た老執事は、いきなり私の足もとにひれ伏して言った。
「あなたがどなたさまにもしろ、また、どんなことをしてあの下司女《げすおんな》の悪魔めがあなたをこの邸内へ誘い込んだにもしろ、どうぞここで起こった出来事を誰にもおっしゃらないでください。わたくしの地位にかかわることでございます。あの気違いの夫人は懲らしめのために、寝床にしっかりと縛りつけておきました。もうすやすやと睡っております。今晩は暖かい七月の晩で、月はございませんが、星は一面にかがやいております。では、お寝《やす》みなさい」
彼はわたしに哀願したのち、ランプを取って部屋を出て、私を門の外へ押し出して錠をおろしてしまった。わたしは気違いのようになって我が家へ急いで帰ったが、それから四、五日は頭がすっかり変になって、この恐ろしい出来事をまったく考えることが出来なかった。ただ、あんなに長い間わたしを苦しめていた魔法から解放されたということだけは、自分にも感じられた。したがって、かの鏡に現われた女の顔に対する私の憧憬の熱もさめ、かの廃宅における怖ろしかった光景の記憶も、単に何かの拍子に瘋癲《ふうてん》病院を訪問したぐらいの追憶になってしまった。
かの老執事が、この世の中からまったく隠されている高貴な狂夫人の暴君的な監視人であることは、もう疑う余地もなかった。それにしても、あの鏡はなんであろう。今までのいろいろの魔法はなんであろう。まあ、これから私が話すことを聴いてください。
それからまた四、五日ののち、わたしはP伯爵の夜会にゆくと、伯爵は私を片隅に引っ張って来て、「あなたはあの廃宅の秘密が洩れ出したのをご存じですか」と、微笑を浮かべながら話しかけた。
私はこれに非常に興味を感じて、伯爵がそのあとをつづけるのを待っていると、惜しいことにちょうど食堂が開かれたので、伯爵もそのまま黙ってしまった。私も伯爵の言葉を夢中になって考えながら、ほとんど機械的に相手の若い娘さんに腕をかして、社交的な行列のなかに加わった。
そうして、私は定められた席へその娘さんを導いてから、はじめてその娘さんの顔をみると、いや、驚いた、かのまぼろしの女がわたしの眼の前に突っ立っているではないか。私は心の底まで顫《ふる》えあがったが、かの幻影に悩まされていた当時のように、気違いじみた憧憬は少しも起こって来なかった。それでも相手の娘さんがびっくりしたように私の顔をじいっと眺めているのを見ると、私の眼にはやはり恐懼《きょうく》の色が現われていたに相違なかった。私はやっとのことで気をしずめると、てれ隠しに、あなたには以前どこかでお目にかかったような気がしますがと言うと、意外にも、生まれてから初めてきのうこのX市に来たばかりですと、相手にあっさりと片づけられてしまったので、私の頭はよけいに混乱して、婦人に不作法ではあったが、そのままに黙っていた。しかも彼女の優しい眼で見られると、わたしは再び勇気が出て、この新しい相手の娘さんの心の動きを観察してみたいような気にもなってきた。たしかにこの娘さんは、可愛らしいところはあるが、何か心に屈託《くったく》がありそうにも見えた。おたがいの話がだんだんはずんできた時分に、わたしは大胆に辛辣《しんらつ》な言葉を時どきに用いると、いつも微笑していたが、その蔭にはあたかも傷口に触れられた時のような苦悩がひそんでいるようであった。
「お嬢さん、今夜は馬鹿にお元気がないようですが、けさお着きでしたか」と、私のそばに坐っていた士官がその娘さんに声をかけた。
その言葉がまだ終わらないうちに、彼のとなりにいる男が士官の腕をつかんで何かその耳にささやいた。すると、また食卓の反対の側では、ひとりの婦人が興奮して顔をまっかにしながら、ゆうべ観て来た歌劇の話を大きな声で語り始めた。こうした愉快そうな環境が彼女の淋しい心にどう響いたのか、その娘さんの眼には涙がこみあげてきた。
「わたし、馬鹿ですわね」と、彼女はわたしの方を向いて言った。それからしばらくして彼女は頭痛がすると言い出した。
「なァに、ちょっとした神経性の頭痛でしょう。この甘美な、詩人の飲料(シャンパン酒)の泡のなかでぶくぶくいっている快活なたましいほど、よく効《き》く薬はありませんよ」と、私は心安だてにこう言いながら、彼女のグラスにシャンパンを一杯に注いでやると、彼女はちょっとそれに唇《くち》をつけて、わたしのほうに感謝の眼を向けた。
彼女の気分は引き立ってきたらしく、このままでいったら何もかも愉快に済んだかもしれなかったのであるが、私のシャンパン・グラスがふとしたはずみで彼女のグラスと触れた刹那、彼女のグラスから異様な甲高《かんだか》い音が発したので、彼女もわたしも急に顔色を変えた。それはかの廃宅の気違い女の声の響きとまったく同様であったからであった。
コーヒーが出てから、私はうまく機会を作ってP伯爵のそばへ行くと、伯爵は私のこの行動を早くもさとっていた。
「あなたは隣りの婦人がエドヴィナ伯爵家の令嬢であることを知っていますか。それから、長いあいだ不治の精神病に苦しみながらあの廃宅に住んでいるのが、あの娘さんの伯母であるということを知っていますか。あの娘さんは、けさ母親と一緒に不幸な伯母に逢いに来たのです。あの狂夫人の暴れ狂うのを鎮めることの出来るものは、かの老執事のほかになかったのですが、そのただひとりの人間がにわかに重病にかかったというわけです。なんでもあの娘さんの母親はK博士に伺って、あの家の秘密を打ち明けたそうですよ」
K博士――その名はすでに諸君も御承知のはずである。そこで言うまでもなく、私は少しも早くその謎を解くために博士の宅を訪問して、私の安心が出来るように、くわしくかの狂女の話をしてくれと頼んだ。以下は、秘密を守るという約束で、博士がわたしに話してくれた物語である。
アンジェリカ――Z伯爵令嬢はすでに三十の坂を越えていたが、まだなかなかに美しかったので、彼女よりもずっと年下のエドヴィナ伯爵は熱心に自分の恋を打ち明けた。そうして、二人はその運だめしに父Z伯の邸へ行くことになった。ところが、エドヴィナ伯爵はその邸へはいってアンジェリカの妹をひと目見ると、姉の容色が急に褪《あ》せてきたように思われて、彼女に対する熱烈な恋は夢のように覚《さ》めてしまい、さらに妹のガブリエルとの結婚を父の伯爵に申し込んだのである。Z伯爵は妹娘もエドヴィナ伯爵を憎く思っていないのを知って、すぐに二人の結婚を許した。
姉のアンジェリカは男の裏切りを非常に怨《うら》んだが、表面はいかにも彼を軽蔑したように、「なァに、伯爵はわたしの鼻についた玩具《おもちゃ》であったということをご存じないんだわ」と言っていた。しかもガブリエルとエド
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング