いで店の方へ出て行って、今はいって来た客に挨拶しながら、ちらりと私の方を見かえって眼顔で合図したので、私はすぐにその客が例の不思議な邸の執事であることを直覚した。鷲鼻で、口を一文字に結んで、猫のような眼をして、薄気味の悪い微笑を浮かべて、木乃伊《みいら》のような顔色をしている、痩形の小男を想像してごらんなさい。さらに彼はその髪に古風な高い髢《かもじ》を入れて、その先きをうしろに垂らした上に、こてこてと髪粉をつけ、ブラシはよく掛けてあるがもうよほどの年数物らしい褐色の上衣《うわぎ》をきて、灰色の長い靴下に、バックルのついた爪さきの平たい靴をはいている。彼は痩せているにもかかわらず、すこぶる頑丈な骨ぐみをして、手は大きく、指は長く、かつ節高《ふしだか》で、しっかりした足取りで帳場の方へ進んで行ったが、やがてどことなく間のぬけたような笑いを見せながら「砂糖漬けのオレンジを二つと巴旦杏《はたんきょう》を二つと、砂糖のついた栗を二つ」と鼻声で言う、この小男の老人の姿をこころに描いてごらんなさい。
菓子屋の職人は私に微笑を送りながら、老人の客に話しかけた。
「どうもあなたはお加減がよろしくないようですね。これもお年のせいとでもいうんでしょうな。どうもこの年というやつは、われわれのからだから力を吸い取るんでね」
老人はその顔色を変わらせなかったが、その声を張りあげた。
「年のせいだと……。年のせいだと……。力がなくなる……。弱くなる……。おお……」
彼はその関節が砕けるかと思うばかりに両手を打ち鳴らすと、店全体がびりびりと震えて、棚のガラス器や帳場はがたがたと揺れた。それと同時に、ものすごい叫び声がきこえたので、老人は自分のあとからついて来て足もとに寝ころんでいる黒犬に近寄った。
「畜生! 地獄の犬め」
例の哀れな調子で唸《うな》るように呶鳴りながら、栗一つを袋から出して犬に投げてやると、かれは人間のような悲しそうな声を出したが、急におとなしく坐って、栗鼠《りす》のようにその栗をかじり始めた。やがて犬が小さな御馳走を平らげてしまうと、老人もまた自分の買物を済ませた。
「さようなら」と、老人はあまりの痛さに相手が思わずあっ[#「あっ」に傍点]と言ったほどに、菓子屋の職人の手を強く握りしめた。「弱い年寄りは、おまえさんがいい夢をみるように祈っているよ、お隣りの大将」
老人は犬を連れて出て行った。彼は私に気がつかないらしかった。私はあきれたようにただ茫然《ぼうぜん》と見送っていると、職人はまた話し出した。
「どうです、ごらんの通りです。月に二、三度ここへ来るたびに、いつもきまってあんなふうなんです。あの爺《じい》さんについていくら探してみても、以前はZ伯爵の従者で、今はあの邸の留守番をして、何年もの長い間、主人一家の来るのを待っているのだということだけしか分からないんです」
時はあたかも町の贅沢な人たちが一種の流行で、この綺麗な菓子屋へあつまって来る刻限になってきたので、入り口のドアは休みなしにあいて、店の中ががやがやし始めたので、私はもうこれ以上にたずねるわけにはゆかなくなった。
わたしはさきにP伯爵があの廃宅について話したことが全然嘘であることを知った。あの人嫌いの老執事は不本意ながらも他の人間と一緒に住んでいて、その古い壁のうしろには何かの秘密が隠されているということを知った。それにしても、あの窓ぎわの美しい女の腕と、気味の悪い不思議な唄の声のぬしとをどう結び付けたものであろうか。あの腕が年を取った女の皺《しわ》だらけのからだの一部であろうはずがない。しかし菓子屋の職人の話では、唄の声は若い血気盛りの女性の喉から出るものでもないらしい。わたしはそれを贔屓眼《ひいきめ》に見て、これはきっと音楽の素養によって若い女がわざと年寄りらしい声を作ったものか、あるいは菓子屋の職人が恐怖のあまりに、そんなふうに聞き誤まったのではないかと、判断をくだしてみた。
しかし、かの煙突の煙りのことや、異様な匂いや、妙な形のガラス壜のことが心に泛《う》かんだとき、宿命的な魔法の呪縛《じゅばく》にかかっている美しい一人の女の姿が、生けるがごとくにわたしの幻影となって現われてきた。そうして、かの執事は伯爵家とはまったく無関係の魔法使いで、あの廃宅のうちに何か魔法の竈《かまど》を作っているのではないかとも思われてきた。わたしのこうした空想はだんだんに逞《たく》ましくなって、その晩の夢に、かのダイヤモンドのきらめく手と、腕環のかがやく腕とを、ありありと見るようになった。薄い灰色の靄《もや》のうちから哀願しているような青い眼をした、可憐な娘の顔が見えたかと思うと、やがてその優しい姿があらわれた。そうして、わたしが靄だと思ったのは、まぼろしの女の手に握られてい
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