女はちょっとそれに唇《くち》をつけて、わたしのほうに感謝の眼を向けた。
 彼女の気分は引き立ってきたらしく、このままでいったら何もかも愉快に済んだかもしれなかったのであるが、私のシャンパン・グラスがふとしたはずみで彼女のグラスと触れた刹那、彼女のグラスから異様な甲高《かんだか》い音が発したので、彼女もわたしも急に顔色を変えた。それはかの廃宅の気違い女の声の響きとまったく同様であったからであった。
 コーヒーが出てから、私はうまく機会を作ってP伯爵のそばへ行くと、伯爵は私のこの行動を早くもさとっていた。
「あなたは隣りの婦人がエドヴィナ伯爵家の令嬢であることを知っていますか。それから、長いあいだ不治の精神病に苦しみながらあの廃宅に住んでいるのが、あの娘さんの伯母であるということを知っていますか。あの娘さんは、けさ母親と一緒に不幸な伯母に逢いに来たのです。あの狂夫人の暴れ狂うのを鎮めることの出来るものは、かの老執事のほかになかったのですが、そのただひとりの人間がにわかに重病にかかったというわけです。なんでもあの娘さんの母親はK博士に伺って、あの家の秘密を打ち明けたそうですよ」
 K博士――その名はすでに諸君も御承知のはずである。そこで言うまでもなく、私は少しも早くその謎を解くために博士の宅を訪問して、私の安心が出来るように、くわしくかの狂女の話をしてくれと頼んだ。以下は、秘密を守るという約束で、博士がわたしに話してくれた物語である。

 アンジェリカ――Z伯爵令嬢はすでに三十の坂を越えていたが、まだなかなかに美しかったので、彼女よりもずっと年下のエドヴィナ伯爵は熱心に自分の恋を打ち明けた。そうして、二人はその運だめしに父Z伯の邸へ行くことになった。ところが、エドヴィナ伯爵はその邸へはいってアンジェリカの妹をひと目見ると、姉の容色が急に褪《あ》せてきたように思われて、彼女に対する熱烈な恋は夢のように覚《さ》めてしまい、さらに妹のガブリエルとの結婚を父の伯爵に申し込んだのである。Z伯爵は妹娘もエドヴィナ伯爵を憎く思っていないのを知って、すぐに二人の結婚を許した。
 姉のアンジェリカは男の裏切りを非常に怨《うら》んだが、表面はいかにも彼を軽蔑したように、「なァに、伯爵はわたしの鼻についた玩具《おもちゃ》であったということをご存じないんだわ」と言っていた。しかもガブリエルとエドヴィナ伯爵の婚約式が済んでからは、アンジェリカは一家の団欒《だんらん》の席に顔をみせないことも少なくなかった。それのみならず、彼女は食堂にも出ないで、ほとんど一日を森の中の独り歩きに暮らしていた。
 ここに一つの異様な事件がこの城における単調な生活を破った。ある日、村の百姓のうちから選抜されたZ伯爵家の猟人《かりうど》らが、最近にとなりの領地で殺人や窃盗をもって告訴されたジプシーの一団を捕縛して、男たちは鎖につなぎ、女子供は馬車に乗せて城の中庭へ引っ立てて来た。女のジプシーの群れの中では、頭から足のさきまで真っ赤な肩掛を着た一人のひょろ長い、痩せこけた、ものすごい顔の老婆がすぐに目についた。その老婆は馬車のなかに立って、いかにも横柄《おうへい》な声で自分を馬車から降ろせと命令するように言い放つと、その態度に恐れをなして、伯爵の家来たちはすぐにその老婆を降ろしてやった。
 Z伯爵は中庭へ降りて来て、この囚人団を城の地下室の牢獄へ繋ぐように命じた。そのとたんに、髪を乱し、恐怖の色をその顔にみなぎらしたアンジェリカが邸の内から走り出て、父の足もとにひざまずいた。
「あの人たちを赦《ゆる》してやってください、お父さま。あの人たちを赦してやってください。もしお父さまがあの人たちの血一滴でもお流しになれば、わたしはこのナイフで、わたくしの胸を突き透します」
 ナイフを打ち振りながら鋭い声でこう叫ぶと、そのまま気を失ってしまった。
「そうですとも、そうですとも、お美しいお嬢さま。私はあなたが私たちをお助けくださることをよく存じております」
 こう金切り声で叫んだのち、ジプシーの老婆は何か口の中でつぶやきながら、アンジェリカのからだに伸《の》しかかって、胸が悪くなるような接吻を彼女の顔といわず胸といわず浴びせかけた。それから肩掛けのポケットから、小さい金魚が銀の液体のなかで泳いでいるように見えるガラスの小壜を取り出して、アンジェリカの胸のところへ持ってゆくと、たちまちに彼女は意識を回復した。彼女は眼を老婆の上にそそぐと、やにわにがば[#「がば」に傍点]と身を起こして老婆を抱きかかえ、疾風《しっぷう》のごとくに城内へ連れ去ってしまったので、Z伯爵をはじめ、途中から出て来た妹のガブリエルも、その恋人のエドヴィナ伯爵も、あまりの驚異に身の毛をよだてた。Z伯爵はともかくもその囚人たちの鎖《
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