を求めようとした時、足もとの床がぐらぐらと揺れたかと思うと、階段を四、五段もころげ落ちて、いやというほどにドアへ叩きつけられながら、小さい部屋のなかへ俯伏《うつぶ》せに倒れてしまった。そこには今あわてて飛び出したらしい空《から》の寝床や、椅子の背に掛けてある褐色の上衣《うわぎ》があるので、私はすぐにここが老執事の寝室であることをさとった。すると、あらあらしく階段を駆け降りて来た老執事は、いきなり私の足もとにひれ伏して言った。
「あなたがどなたさまにもしろ、また、どんなことをしてあの下司女《げすおんな》の悪魔めがあなたをこの邸内へ誘い込んだにもしろ、どうぞここで起こった出来事を誰にもおっしゃらないでください。わたくしの地位にかかわることでございます。あの気違いの夫人は懲らしめのために、寝床にしっかりと縛りつけておきました。もうすやすやと睡っております。今晩は暖かい七月の晩で、月はございませんが、星は一面にかがやいております。では、お寝《やす》みなさい」
 彼はわたしに哀願したのち、ランプを取って部屋を出て、私を門の外へ押し出して錠をおろしてしまった。わたしは気違いのようになって我が家へ急いで帰ったが、それから四、五日は頭がすっかり変になって、この恐ろしい出来事をまったく考えることが出来なかった。ただ、あんなに長い間わたしを苦しめていた魔法から解放されたということだけは、自分にも感じられた。したがって、かの鏡に現われた女の顔に対する私の憧憬の熱もさめ、かの廃宅における怖ろしかった光景の記憶も、単に何かの拍子に瘋癲《ふうてん》病院を訪問したぐらいの追憶になってしまった。
 かの老執事が、この世の中からまったく隠されている高貴な狂夫人の暴君的な監視人であることは、もう疑う余地もなかった。それにしても、あの鏡はなんであろう。今までのいろいろの魔法はなんであろう。まあ、これから私が話すことを聴いてください。

 それからまた四、五日ののち、わたしはP伯爵の夜会にゆくと、伯爵は私を片隅に引っ張って来て、「あなたはあの廃宅の秘密が洩れ出したのをご存じですか」と、微笑を浮かべながら話しかけた。
 私はこれに非常に興味を感じて、伯爵がそのあとをつづけるのを待っていると、惜しいことにちょうど食堂が開かれたので、伯爵もそのまま黙ってしまった。私も伯爵の言葉を夢中になって考えながら、ほとんど機械的に相手の若い娘さんに腕をかして、社交的な行列のなかに加わった。
 そうして、私は定められた席へその娘さんを導いてから、はじめてその娘さんの顔をみると、いや、驚いた、かのまぼろしの女がわたしの眼の前に突っ立っているではないか。私は心の底まで顫《ふる》えあがったが、かの幻影に悩まされていた当時のように、気違いじみた憧憬は少しも起こって来なかった。それでも相手の娘さんがびっくりしたように私の顔をじいっと眺めているのを見ると、私の眼にはやはり恐懼《きょうく》の色が現われていたに相違なかった。私はやっとのことで気をしずめると、てれ隠しに、あなたには以前どこかでお目にかかったような気がしますがと言うと、意外にも、生まれてから初めてきのうこのX市に来たばかりですと、相手にあっさりと片づけられてしまったので、私の頭はよけいに混乱して、婦人に不作法ではあったが、そのままに黙っていた。しかも彼女の優しい眼で見られると、わたしは再び勇気が出て、この新しい相手の娘さんの心の動きを観察してみたいような気にもなってきた。たしかにこの娘さんは、可愛らしいところはあるが、何か心に屈託《くったく》がありそうにも見えた。おたがいの話がだんだんはずんできた時分に、わたしは大胆に辛辣《しんらつ》な言葉を時どきに用いると、いつも微笑していたが、その蔭にはあたかも傷口に触れられた時のような苦悩がひそんでいるようであった。
「お嬢さん、今夜は馬鹿にお元気がないようですが、けさお着きでしたか」と、私のそばに坐っていた士官がその娘さんに声をかけた。
 その言葉がまだ終わらないうちに、彼のとなりにいる男が士官の腕をつかんで何かその耳にささやいた。すると、また食卓の反対の側では、ひとりの婦人が興奮して顔をまっかにしながら、ゆうべ観て来た歌劇の話を大きな声で語り始めた。こうした愉快そうな環境が彼女の淋しい心にどう響いたのか、その娘さんの眼には涙がこみあげてきた。
「わたし、馬鹿ですわね」と、彼女はわたしの方を向いて言った。それからしばらくして彼女は頭痛がすると言い出した。
「なァに、ちょっとした神経性の頭痛でしょう。この甘美な、詩人の飲料(シャンパン酒)の泡のなかでぶくぶくいっている快活なたましいほど、よく効《き》く薬はありませんよ」と、私は心安だてにこう言いながら、彼女のグラスにシャンパンを一杯に注いでやると、彼
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