犬を連れて出て行った。彼は私に気がつかないらしかった。私はあきれたようにただ茫然《ぼうぜん》と見送っていると、職人はまた話し出した。
「どうです、ごらんの通りです。月に二、三度ここへ来るたびに、いつもきまってあんなふうなんです。あの爺《じい》さんについていくら探してみても、以前はZ伯爵の従者で、今はあの邸の留守番をして、何年もの長い間、主人一家の来るのを待っているのだということだけしか分からないんです」
 時はあたかも町の贅沢な人たちが一種の流行で、この綺麗な菓子屋へあつまって来る刻限になってきたので、入り口のドアは休みなしにあいて、店の中ががやがやし始めたので、私はもうこれ以上にたずねるわけにはゆかなくなった。

 わたしはさきにP伯爵があの廃宅について話したことが全然嘘であることを知った。あの人嫌いの老執事は不本意ながらも他の人間と一緒に住んでいて、その古い壁のうしろには何かの秘密が隠されているということを知った。それにしても、あの窓ぎわの美しい女の腕と、気味の悪い不思議な唄の声のぬしとをどう結び付けたものであろうか。あの腕が年を取った女の皺《しわ》だらけのからだの一部であろうはずがない。しかし菓子屋の職人の話では、唄の声は若い血気盛りの女性の喉から出るものでもないらしい。わたしはそれを贔屓眼《ひいきめ》に見て、これはきっと音楽の素養によって若い女がわざと年寄りらしい声を作ったものか、あるいは菓子屋の職人が恐怖のあまりに、そんなふうに聞き誤まったのではないかと、判断をくだしてみた。
 しかし、かの煙突の煙りのことや、異様な匂いや、妙な形のガラス壜のことが心に泛《う》かんだとき、宿命的な魔法の呪縛《じゅばく》にかかっている美しい一人の女の姿が、生けるがごとくにわたしの幻影となって現われてきた。そうして、かの執事は伯爵家とはまったく無関係の魔法使いで、あの廃宅のうちに何か魔法の竈《かまど》を作っているのではないかとも思われてきた。わたしのこうした空想はだんだんに逞《たく》ましくなって、その晩の夢に、かのダイヤモンドのきらめく手と、腕環のかがやく腕とを、ありありと見るようになった。薄い灰色の靄《もや》のうちから哀願しているような青い眼をした、可憐な娘の顔が見えたかと思うと、やがてその優しい姿があらわれた。そうして、わたしが靄だと思ったのは、まぼろしの女の手に握られてい
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