うしろから出て来る! 君、あの女が見えるだろう。いや、当然見えなければならん! おお、まだあすこに! わしから逃げて行く。きっと逃げているのだ……ああ、行ってしまった!」
彼はこの最後の一句を、鬱結《うっけつ》せる苦痛のつぶやきをもって発したのである。
これはおそらく永久にわたしの記憶から消え去ることはないであろう。彼は縄梯子《なわばしご》に取りすがって、舷檣の頂きに登ろうと努《つと》めた。それはあたかも去りゆくものの最後の一瞥《いちべつ》を得んと望むかのように――。
しかし、彼の力は足らず、集会室《ホール》の明かり窓によろめき退《しさ》って来て、そこに彼はあえぎ疲れて倚《よ》りかかってしまった。その顔色は蒼白となったので、私はきっと彼が意識を失うものと思って、時を移さずに彼を伴って明かり窓を降りて、船室のソファの上にそのからだを横たえさせた。それから私はその脣《くち》にブランディをつぎ込んだ。幸いにそれが卓効《たくこう》を奏して、蒼白な彼の顔には再び血の気があらわれ、ふるえる手足をようやく落ち着かせるようになった。彼は肘《ひじ》を突いてからだを起こして、あたりを見まわしていたが
前へ
次へ
全57ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング