春、船長が再びその事務所へ戻って来た時には、彼の横頸には皺《しわ》だらけの傷が出来ていた。彼はいつもこれを襟巻で隠そう隠そうと努めていた。彼は戦争に従事していたのであろうというミルンの推測が、果たして真実なりや否やということは、私にも断言出来ないが、いずれにもせよ、これは確かに不思議なる暗合といわなければならなかった。
風は東寄りの方向に吹きまわしてはいるが、依然ほんの微風である。思うに、氷はきのうよりも密なるべし。見渡すかぎり白《はく》皚皚《がいがい》、まれに見る氷の裂け目か、氷丘の黒い影のほかには、一点のさえぎるものなき一大氷原である。遙か南方に碧《あお》い海の狭い通路がみえる。それがわれわれの逃がれ出ることの出来る唯一《ゆいいつ》の道であるが、それさえ日毎《ひごと》に結氷しつつあるのである。
船長はみずから重大な責任を感じている。聞けば、馬鈴薯のタンクはもう終わりとなり、ビスケットさえ不足を告げているそうである。しかし船長は相変わらず無感覚な顔をして、望遠鏡で地平線を見渡しながら、一日の大部分を檣《マスト》の上の見張り所に暮らしている。彼の態度は非常に変わりやすく、彼はわたしと一緒になるのをみずから避けているらしい。といって、何も先夜示したような乱暴を再びしたわけではない。
三
午後七時三十分。熟慮の結果、ようやくに得たる私の意見は、われわれは狂人に支配されているということである。この以外のものでは、クレーグ船長の非常な斑気《むらき》を説明することは不可能である。わたしがこの航海日誌を付けてきたのはまことに幸いである。われわれが彼をどんな種類の監禁のもとに置くにしても――この手段は最後のものとして、私は承認するのみであるが――われわれの行為を正当なるものと証拠だてる場合には、この日誌がどれほど役に立つことになるかもしれないからである。まったく不思議なことではあるが、精神錯乱を暗示したのは船長自身であって、その怪しい行為の原因が単なる特異の風変わりとは認められないのであった。
彼は約一時間ばかり前に、ブリッジの上に立っていた。そうして、私が後甲板をあちらこちらと歩いている間、絶えず例の望遠鏡でじっと立って眺めていた。船員の多くは下で茶を喫《の》んでいた。というのは、近ごろ見張りが規則正しく続けられなくなってきたからである。歩くに疲れて、わたしは舷檣に倚《よ》りかかりながら、周囲にひろがっている大氷原に、今しも沈もうとしている太陽の投げる澄明《ちょうめい》な光りを心から感歎して眺めていると、その夢幻の状態から、わたしは間近《まぢか》にきこえる嗄《しゃが》れ声のために突然われにかえった。それと同時に、船長があたりをきょろきょろ見廻しながら降りて来て、わたしのすぐ側に立っているのを見いだした。
彼は恐れと驚きと、何か喜びの近づいて来るらしい感情とが相争っているような表情で、氷の上を見まもっていた。寒いにもかかわらず、大きい汗のしずくがその額に流れていて、彼が恐ろしく興奮していることが明らかにわかった。その手足は癲癇《てんかん》の発作を今にも起こそうとしている人のように、ぴりぴりと引きつってきた。その口のあたりの相貌はみにくくゆがんで、固くなっていた。
「見たまえ!」と、彼はわたしの手首をとらえて、あえぎながら言った。
しかし、眼は依然として遠い氷の上にそそぎ、頭は幻影の野を横切って動く何物かを追うかのように、おもむろに地平のあなたに向かって動いていた。
「見たまえ! それ、あすこに人が! 氷丘のあいだに! 今、あっちのうしろから出て来る! 君、あの女が見えるだろう。いや、当然見えなければならん! おお、まだあすこに! わしから逃げて行く。きっと逃げているのだ……ああ、行ってしまった!」
彼はこの最後の一句を、鬱結《うっけつ》せる苦痛のつぶやきをもって発したのである。
これはおそらく永久にわたしの記憶から消え去ることはないであろう。彼は縄梯子《なわばしご》に取りすがって、舷檣の頂きに登ろうと努《つと》めた。それはあたかも去りゆくものの最後の一瞥《いちべつ》を得んと望むかのように――。
しかし、彼の力は足らず、集会室《ホール》の明かり窓によろめき退《しさ》って来て、そこに彼はあえぎ疲れて倚《よ》りかかってしまった。その顔色は蒼白となったので、私はきっと彼が意識を失うものと思って、時を移さずに彼を伴って明かり窓を降りて、船室のソファの上にそのからだを横たえさせた。それから私はその脣《くち》にブランディをつぎ込んだ。幸いにそれが卓効《たくこう》を奏して、蒼白な彼の顔には再び血の気があらわれ、ふるえる手足をようやく落ち着かせるようになった。彼は肘《ひじ》を突いてからだを起こして、あたりを見まわしていたが
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