にたたずんでいると、月の光りが雲間を洩れて来て、二人はさっき泣き声を聞いた方向に、なにか白いものが氷原を横切って動いているのを見た。それはすぐに見えなくなったが、再び左舷にあらわれて、氷上に投げた影のように、はっきりとそれを認めることが出来た。
僕はひとりの水夫に命じて、船尾へ鉄砲を取りにやった。そうして、僕はムレアドと一緒に浮氷へ降りて行った。おそらくそれは熊の奴だろうと思ったのである。われわれが氷の上に降りたときに、僕はムレアドを見失ってしまったが、それでも声のする方へすすんで行った。おそらく一マイル以上も、僕はその声を追って行ったであろう。そうして、氷丘のまわりを走って、いかにも僕を待っているかのように立っている、その頂きへまっすぐに登って、その上から見おろしたが、かの白い形をしたものはなんであったか、一向にわからない。とにかくに熊ではなかった。それは丈が高く、白く、まっすぐなものであった。もしそれが男でも、女でもなかったとしたらば、きっと何かもっと悪いものに違いないことを保証する。僕は怖くなって、一生懸命に船の方へ走って来て、船に乗り込んでようやくほっとした次第である。僕は乗船中、自己の義務を果たすべき条款《じょうかん》に署名した以上、この船にとどまってはいるが、日没後はもう二度と氷の上へはけっして行かないぞ」
これがすなわち彼の物語で、わたしは出来るかぎり彼の言葉をそのままに記述したのである。
彼は極力否定しているが、わたしの想像するところでは、彼の見たのは若い熊が後脚《あとあし》で立っていた、その姿に相違あるまい。そんな格好は、熊が何か物に驚いたりした時に、いつもよくやることである。覚束《おぼつか》ない光りの中で、それが人間の形に見えたのであろう。まして既に神経を多少悩ましている人においてをやである。とにかく、それが何であろうとも、こんなことが起こったということは一種の不幸で、それが多数の船員らに非常に不快な、おもしろからぬ結果をもたらしたからである。
かれらは以前よりも一層むずかしい顔をし、不満の色がいよいよ露骨になって来た。鯡《にしん》猟に行かれないのと、かれらのいわゆる物に憑かれた船にとどめられているのと、この二重の苦情がかれらを駆《か》って無鉄砲な行為をなさしめるかもしれない。船員ちゅうの最年長者であり、また最も着実な、あの魚銛発射手でさえも、みんなの騒ぎに加わっているのである。
この迷信騒ぎの馬鹿らしい発生を除いては、物事はむしろ愉快に見えているのである。われわれの南方に出来ていた浮氷は一部溶け去って、海潮はグリーンランドとスピッツバーゲンの間を走る湾流の一支流にわれらの船は在るのだと、わたしを信ぜしめるほどに暖かになって来た。船の周囲には、たくさんの小海蝦《こえび》と共に、無数の小さな海月《くらげ》やうみうし[#「うみうし」に傍点]などが集まって来ているので、鯨のみえるという見込みはもう十分である。果たしてその通り、夕食の頃に汐を噴いているのを一頭見かけたが、あんな地位にあっては、船でその跡《あと》を追いかけることは不可能であった。
九月十三日。ブリッジの上で、一等運転士ミルン氏と興味ある会話を試みた。
わが船長は水夫らには大いなる謎である。私にもそうであったが、船主にさえもそうであるらしい。ミルン氏の言うには、航海が終わって、給金済みの手切れになると、クレーグ船長はどこへか行ってしまって、そのまま姿を見せない。再び季節《シーズン》が近づくと、彼はふらりと会社の事務所へ静かにはいって来て、自分の必要があるかどうかを訊《たず》ねるのである。それまではけっしてその姿を見ることは出来ない。彼はダンディには朋輩を持たず、たれ一人としてその生い立ちを知っている者もない。船長として彼の地位は、まったく海員としての彼の手腕と、その勇気や沈着などに対する名声とによっているのである。そうして、その名声も彼が個個の指揮権を托される前に、すでに運転士としての技倆によって獲得したのであった。彼はスコットランド人ではなく、そのスコットランド風の名は仮名であるというのが、みんなの一致した意見のようである。
ミルン氏はまたこう考えている――船長という職は彼がみずから選み得るなかで最も危険な職業であるという理由によって、単に捕鯨に身をゆだねて来たのであって、彼はあらゆる方法で死を求めているのであると。ミルン氏はまた、それに就いて数個の例を挙げている。そのうちの一つは、もしそれが果たして事実とすれば、むしろ不思議千万である。ある時、船長は猟のシーズンが来ても、例の事務所に姿を見せなかったので、これに代る者を物色せねばならないことになった。それはあたかも最近の露土《ろど》戦争の始まっている時であった。ところが、その翌年の
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