しかし庭を見おろしているうちに、ジョヴァンニの考えは確かに一種の病的になったであろう。この美しい未知の人が彼にあたえた印象は、さらに一つの花が咲き出したかのようであった。そうして、この人間の花はそれらの植物の花と姉妹《きょうだい》で、同じように美しく、さらにそれよりも遙かに美しく、しかもなお手袋をはめてのみ触れ得べく、またマスクなしには近づくべからざる花のようであった。ベアトリーチェが庭の小径に降りて来た時、彼女はその父がきわめて用意周到に避けてきたいくつかの植物の匂いを平気で吸い、また平気でそれに手も触れているのが見えた。
「さあ、ベアトリーチェ」と、父は言った。「ご覧、私たちのいちばん大切な宝のために、しなければならない仕事がたくさんある。私は弱っているから、あまりむやみにそれに近づくと、命を失うおそれがある。それで、この木はおまえひとりに任せなければならないと思うが……」
「そんなら、わたしは喜んで引き受けます」と、再び美しい声で叫びながら、彼女はかの目ざましい灌木にむかって腰をかがめ、それを抱くように両腕をひろげた。
「ええ、そうですよ。ねえ、わたしの立派な妹さん、あなたを育ててゆくのは、このベアトリーチェの役目なのです。それですから、あなたの接吻《キッス》と……それから私の命のその芳《かん》ばしい呼吸《いき》とを、わたしに下さらなければならないのですよ」
その言葉にあらわれたような優しさを、その態度の上にもあらわして、彼女はその植物に必要と思われるだけの十分の注意をもって忙しく働きはじめた。
ジョヴァンニは高い窓にもたれかかりながら、自分の眼をこすった。娘がその愛する花の世話をしているのか、または花の姉妹がたがいに愛情を示しあっているのか、まったくわからなかった。しかも、この光景はすぐに終わった。ドクトル・ラッパチーニがその庭造りの仕事を終わったのか、あるいはその慧眼がジョヴァンニのあることを見てとったのか。そのいずれかは知れないが、父は娘の手をとって庭を立ち去ってしまった。
夜はすでに近づいていた。息づまるような臭気が庭の植物から発散して、あけてある窓から忍び込むようであった。ジョヴァンニは窓をしめて寝床にはいって、美しい花と娘のことを夢想した。花と娘とは別べつのものであって、しかも同じものである。そうして、その両者には何か不思議な危険が含まれていた。
しかし朝の光りは、太陽が没している間に、または夜の影のあいだに、あるいは曇りがちな月光のうちに生じたところの、どんな間違った想像をも、あるいは判断さえも、まったく改めるものである。眠りから醒めて、ジョヴァンニがまっさきの仕事は、窓をあけてかの庭園をよく見ることであった。それは昨夜の夢によって、大いに神秘的に感じられてきたのであった。早い朝日の光りは花や葉に置く露をきらめかし、それらの稀に見る花にも皆それぞれに輝かしい美しさをあたえながら、あらゆるものをなんの不思議もない普通日常の事として見せている。その光りのうちにあって、この庭も現実の明らかな事実としてあらわれたとき、ジョヴァンニは驚いて、またいささか恥じた。この殺風景な都会のまんなかで、こんな美しい贅沢《ぜいたく》な植物を自由に見おろすことの出来る特権を得たのを、青年は喜んだのである。彼はこの花を通じて自然に接することが出来ると、心ひそかに思った。
見るからに病弱の、考え疲れたような、ドクトル・ジャコモ・ラッパチーニも、またその美しい娘も、今はそこには見えなかったので、ジョヴァンニは自分がこの二人に対して感じた不思議を、どの程度までかれらの人格に負わすべきものか、また、どの程度までを自分自身の奇蹟的想像に負わすべきものかを、容易に決定することが出来なかった。しかし彼はこの事件全体について、最も合理的の見解をくだそうと考えた。
その日、彼はピエトロ・バグリオーニ氏を訪問した。氏は大学の医科教授で、有名な医者であった。ジョヴァンニはこの教授に宛てた紹介状を貰っていたのである。教授は相当の年配で、ほとんど陽気といってもいいような、一見快活の性行を有していた。彼はジョヴァンニに食事を馳走し、殊《こと》にタスカン酒の一、二罎をかたむけて、少しく酔いがまわってくると、彼は自由な楽しい会話でジョヴァンニを愉快にさせた。ジョヴァンニは双方が同じ科学者であり、同じ都市の住民である以上、かならず互いに親交があるはずだと思って、よい機《おり》を見てドクトル・ラッパチーニの名を言い出すと、教授は彼が想像していたほどには、こころよく答えなかった。
「神聖なるべき仁術の教授が……」と、ピエトロ・バグリオーニ教授は、ジョヴァンニの問いに答えた。「ラッパチーニのごとき非常に優れた医者の、適当と思われる賞讃に対して、それを貶《けな》
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