ございました。しかし今となっては、そんなことはもうどうでもようございます。お父さま。わたくしはもう……。あなたがわたくしのからだに織り込もうとなすった禍いが夢のように、……この毒のある花の匂いのように、失《な》くなってしまうところへ参ります。エデンの園の花のなかには、わたくしの呼吸《いき》に毒を沁みさせるような花はないでしょう。では、さようなら、ジョヴァンニ……。あなたの憎しみの言葉は、鉛のようにわたくしの心のうちに残っています。それもわたくしが天国へ昇ってしまえば、みんな忘れられるでしょう。おお、あなたの体質には、わたくしの体質のうちにあったよりも、もっとたくさんの毒が最初から含まれていたのではありますまいか」
 彼女の現世の姿は、ラッパチーニの優れた手腕によって、非常に合理的に作られていたので、毒薬が彼女の生命であったと同じように、効能のいちじるしい解毒剤は彼女にとって「死」であった。
 こうして、人間の発明と、それにさからう性質の犠牲となり、かくのごとく誤用された知識の努力に伴う運命の犠牲となって、あわれなるベアトリーチェは、父とジョヴァンニの足もとに仆《たお》れた。
 あたかもそのとき、ピエトロ・バグリオーニ教授は窓から覗いて、勝利と恐怖とを混《こん》じたような調子で叫んだ。彼は雷に撃たれたように驚いている科学者にむかって、大きい声で呼びかけたのである。
「ラッパチーニ……。ラッパチーニ……。これが君の実験の終局か」



底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年8月4日初版発行
入力:清十郎
校正:もりみつじゅんじ
2001年10月8日公開
2005年12月2日修正
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