ール夫人がその手でいくたびか両方の眼をこすったことと、自分の持病の発作が顔容《かおかたち》を変えはしないかと訊ねたことは、わざとバーグレーヴ夫人に自分の発作のことを思い出させるためと、彼女が弟のところへ指環や金貨の分配方を書いて送るように頼んだことを、臨終の人の要求のように思わせずに、発作の結果だと思わせるためであったように考えられる。それであるから、バーグレーヴ夫人も確かにヴィール夫人の持病が起こって来たものと思い違いをしたのである。同時にバーグレーヴ夫人を驚かせまいとしたことは、いかに彼女を愛し、彼女に対して注意を払っていたかという実例の一つであろう。その心遣いはヴィール夫人の亡霊の態度に始終一貫して現われていて、特に白昼彼女のところに現われたことや、挨拶の接吻を拒んだことや、独《ひと》りになった時や、更にまたその別れる時の態度、すなわち彼女に挨拶の接吻をまた繰り返させまいとしたことなどが皆それであった。
 さて、なぜにヴィール氏がこの物語を気違い沙汰であると考えて、極力その事実を隠蔽しようとしているのか、私には想像がつかない。世間ではヴィール夫人を善良の亡霊と認め、彼女の会話は実に神のごときものであったと信じているのではないか。彼女の二つの大いなる使命は、逆境にあるバーグレーヴ夫人を慰藉《いしゃ》するとともに、信仰の話で彼女を力づけようとした事と、疎遠になっていた詫びを言いに来た事とであった。また仮りに、何か複雑の事情とか利益問題とかいうことを抜きにして、バーグレーヴ夫人がヴィール夫人の死を早く知って、金曜の昼から土曜の昼までにこんな筋書を作りあげたものと想像してご覧なさい。そんな真似をするような彼女であったらば、もっと機智があって、もっと生活が豊かで、しかも他人が認めているよりも、もっと陰険な女でなければならないはずである。
 私はいくたびかバーグレーヴ夫人にむかって、確かに亡霊の上着に触れたかどうかを糺《ただ》してみたが、いつも彼女は謙遜して、「もしも私の感覚に間違いがないならば、私は確かにその上着に触れたと思います」と答えるのであった。それからまた、亡霊がその手で膝をたたいた時に、確かにその音を聞いたかと訊ねると、彼女は聞いたかどうかはっきりとは記憶していないが、その亡霊の肉体は自分とまったく同じものであったと言った。
「それですから、私の見たのはあの人ではなくて、あの人の亡霊であったと言われれば、いま私と話しているあなたも、私には亡霊かと思われます。あの時の私には、怖ろしいなどという感じはちっともいたしませんで、どこまでもお友達のつもりで家へ入れて、お友達のつもりで別れたのでございます」
 また、彼女は「私は別にこの話を他人に信じてもらおうと思って、一銭の金も使った覚えもございませんし、また、この話で自分が利益を得ようとも思っていません。むしろ自分では、長い間よけいな面倒が殖《ふ》えただけだと思っています。ふとしたことで、この話が世間へ知れるようにならなかったら、こんなに拡まらずに済みましたのに……」と言っていた。
 しかし今では、彼女もこの物語を利用して、出来るだけ世の人びとのためになるように尽くそうと、ひそかに考えてきたと言っている。そうして、その以来、彼女はその考えを実行した。彼女の話によると、ある時は三十マイルも離れた所からこの物語を聞きに来た紳士もあり、またある時は一時《いちじ》に部屋いっぱいに集まって来た人びとにむかって、この物語を話して聞かせたこともあったそうである。とにかくに、ある特殊な紳士たちはバーグレーヴ夫人の口からみな直接にこの物語を聞いたのであった。

 このことは私を非常に感動させたとともに、私はこの正確なる根底のある事実について大いに満足を感じている。そうして、私たち人間というものは、確実な見解を持つことが出来ないくせに、なぜに事実を論争しあっているのか、私には不思議でならない。ただ、バーグレーヴ夫人の証明と誠実とだけは、いかなる場合にも疑うことの出来ないものであろう。



底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版発行
   2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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