す」と言った。その詩のうちには極楽という言葉を二度も使ってあった。
「ああ、詩人たちは天国にいろいろの名をつけていますのね」と、ヴィール夫人は言った。
そうして、彼女は時どきに眼をこすりながら言った。「あなたは私が持病の発作《ほっさ》のために、どんなにひどく体をこわしているかをご存じないでしょう」
「いいえ。私には、やっぱり以前のあなたのように見えます」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
すべてそれらの会話は、バーグレーヴ夫人がとてもその通りに思い出して言い現わすことが出来ないほど、非常にあざやかな言葉でヴィール夫人の亡霊によって進行したのであった。
(一時間と四十五分をついやした長い会話を全部おぼえていられるはずもなく、また、その長い会話の大部分はヴィール夫人の亡霊が語っているのである。)
ヴィール夫人は更にバーグレーヴ夫人にむかって、自分の弟のところへ手紙を出して、自分の指輪は誰だれに贈ってくれ、二カ所の広い土地は彼女の従兄弟《いとこ》のワトソンに与えてくれ、金貨の財布は彼女の私室《キャビネット》にあるということを書き送ってくれと言った。
話がだんだんに怪しくなってきたので、バーグレーヴ夫人はヴィール夫人が例の発作におそわれているのであろうと思った。ひょっとして椅子から床へ倒れ落ちては大変だと考えたので、彼女の膝の前にある椅子に腰をかけた。こうして、前の方を防いでいれば、安楽椅子の両側からは落ちる気づかいはないと思ったからであった。それから彼女はヴィール夫人を慰めるつもりで、二、三度その上着の袖を持ってそれを褒《ほ》めると、ヴィール夫人はこれは練絹《ねりぎぬ》で、新調したものであると話した。しかも、こうした間にもヴィール夫人は手紙のことを繰り返して、バーグレーヴ夫人に自分の要求を拒《こば》まないでくれと懇願するのみならず、機会があったら今日の二人の会話を自分の弟に話してやってくれとも言った。
「ヴィールさん、私にはあまり差し出がましくて、承諾していいか悪いか分かりません。それに、私たちの会話は若い殿方《とのがた》の感情をどんなに害するでしょう」と、バーグレーヴ夫人は渋るように言って、「なぜあなたご自身でおっしゃらないのです。私はそのほうがずっといいと思います」と付けたした。
「いいえ」と、ヴィール夫人は答えた。「今のあなたには差し出がましいようにお思いになるでしょうが、あとであなたにもわかる時があります」
そこで、バーグレーヴ夫人は彼女の懇願を容《い》れるために、ペンと紙とを取りに行こうとすると、ヴィール夫人は、「今でなくてもよろしいのです。私が帰ったあとで書いてください、きっと書いて下さい」と言った。別れる時には彼女はなお念を押したので、バーグレーヴ夫人は彼女に固く約束したのであった。
彼女はバーグレーヴ夫人の娘のことを尋《たず》ねたので、娘は留守であると言った。「しかし、もし逢ってやって下さるならば、呼んで来ましょう」と答えると、「そうして下さい」と言うので、バーグレーヴ夫人は彼女を残しておいて、隣りの家へ娘を探しに行った。帰って来てみると、ヴィール夫人は玄関のドアの外に立っていた。きょうは土曜日で市《いち》の開ける日であったので、彼女はその家畜市のほうを眺めて、もう帰ろうとしているのであった。
バーグレーヴ夫人は彼女にむかって、なぜそんなに急ぐのかと訊《たず》ねると、彼女はたぶん月曜日までは旅行に出られないかもしれないが、ともかくも帰らなければならないと答えた。そうして、旅行する前にもう一度、従兄弟《いとこ》のワトソンの家でバーグレーヴ夫人に逢いたいと言った。それから彼女はもうお暇《いとま》をしますと別れを告げて歩き出したが、町の角を曲がってその姿は見えなくなった。それはあたかも午後一時四十五分過ぎであった。
九月七日の正午十二時に、ヴィール夫人は持病の発作《ほっさ》のために死んだ。その死ぬ前の四時間以上はほとんど意識がなかった。臨床塗油式《サクラメント》はその間におこなわれた。
ヴィール夫人が現われた次の日の日曜日に、バーグレーヴ夫人は悪感《さむけ》がして非常に気分が悪かった上に、喉《のど》が痛んだので、その日は終日外出することが出来なかった。しかし、月曜の朝、彼女は船長のワトソンの家へ女中をやって、ヴィール夫人がいるかどうかを尋ねさせると、そこの家の人たちはその問い合わせに驚かされて、彼女は来ていない、また来るはずにもなっていないという返事をよこした。その返事を聞いても、バーグレーヴ夫人は信じなかった。彼女はその女中にむかって、たぶんおまえが名前を言い違えたのか、何かの間違いをしたのであろうと言った。
それから気分の悪いのを押して、彼女は頭巾《ずきん》をかぶって、自分と一面識のない船長ワトソンの家へ行って、ヴィール夫人がいるかどうかをまた尋ねた。そこの人たちは彼女の再度の問い合わせにいよいよ驚いて、「ヴィール夫人はこの町には来ていない、もし来ていれば、きっと自分たちの家へ来なければならない」と答えると、「それでも私は土曜日に二時間ほどヴィール夫人と一緒におりましたのですが……」と彼女は言った。
いや、そんなはずはない。もしそうだとすれば、第一自分たちがヴィール夫人に逢っていなければならないと、たがいに押し問答をしている間に、船長のワトソンがはいって来て、おおかた彼女が死んだので、お知らせがあったのだろうと言った。その言葉がバーグレーヴ夫人には妙に気がかりになったので、早速にヴィール夫人一家の面倒を見てやっていた人のところへ手紙で聞き合わせて、初めて彼女が死んだことを知った。
そこで、バーグレーヴ夫人はワトソンの家族の人たちに、今までの一部始終から、彼女の着ていた着物の縞柄や、しかもその着物は練絹であるといったことまでを打ち明けて話した。すると、ワトソン夫人は「あなたがヴィールさんをご覧になったとおっしゃるのは本当です。あの人の着物が練絹だということを知っている者は、あの人と私だけですから」と叫んだ。ワトソン夫人はバーグレーヴ夫人が彼女の着物について言ったことは、何から何まで本当であると首肯《しゅこう》して、「私が手伝ってあの着物を縫って上げたのです」と言った。
そうして、ワトソン夫人は町じゅうにそのことを言いひろめながら、バーグレーヴ夫人がヴィール夫人の亡霊を見たのは事実であると、証明したので、その夫のワトソンの紹介によって、二人の紳士がバーグレーヴ夫人の家へたずねて来て、彼女自身の口から亡霊の話を聞いて行った。
この話がたちまち拡まると、あらゆる国の紳士、学者、分別のある人、無神論者などという人びとが彼女の門前に市《いち》をなすように押しかけて来たので、しまいには邪魔をされないように防禦するのが彼女の仕事になってしまった。というのは、かれらはたいてい幽霊の存在ということに非常な興味を持っていた上に、バーグレーヴ夫人が全然《ぜんぜん》鬱症になど罹《かか》っていないのを目撃し、また彼女がいつも愉快そうな顔をしているので、すべての人たちから好意をむけられ、かつ尊敬されているのを見聞して、大勢の見物人は彼女自身の口からその話を聞くことが出来れば、大いなる記念にもなると思うようになったからであった。
私は前に、ヴィール夫人がバーグレーヴ夫人にむかって、自分の妹とその夫がロンドンから自分に逢いに来ていると言っていたことを、あなたに話しておかなければならなかった。その時にも、バーグレーヴ夫人が「なぜ今が今、そんなにいろいろのことを整理しなければならないのですか」と訊《き》くと、「でも、そうしなければならないのですもの」と、ヴィール夫人は答えている。
果たして彼女の妹夫婦は彼女に逢いに来て、ちょうど彼女が息を引き取ろうというときに、ドーバーの町へ着いたのであった。
話はまた前に戻るが、バーグレーヴ夫人はヴィール夫人にお茶を飲むかと訊くと、彼女は「飲んでもいいのですが、あの気違い(バーグレーヴ夫人の夫をいう)が、あなたの道具をこわしてしまったでしょうね」と言った。そこで、バーグレーヴ夫人は「私はまだお茶を飲むぐらいの道具はあります」と答えたが、彼女はやはりそれを辞退して、「お茶などはどうでもいいではありませんか。打っちゃっておいてください」と言ったので、そのままになってしまった。
私がバーグレーヴ夫人と数時間むかい合って坐っている間、彼女はヴィール夫人の言ったうちで今までに思い出せなかった言葉はないかと、一生懸命に考えていた結果、ただ一つ重要なことを思い出した。それはブレトン老人がヴィール夫人に毎年十ポンドずつを給与していてくれたという秘密で、彼女自身もヴィール夫人に言われるまでは全然知らなかった。
バーグレーヴ夫人はこの物語に手加減を加えるようなことは絶対にしなかったが、彼女からこの物語を聞くと、亡霊の実在性を疑っている人間や、少なくとも幽霊などと馬鹿にしている連中も迷ってしまった。ヴィール夫人が彼女の家へ訪ねて来たとき、隣りの家の召仕《めしつか》いはバーグレーヴ夫人が誰かと話しているのを庭越しに聞いていた。そうして、彼女はヴィール夫人と別れると、すぐに一軒置いて隣りの家へ行って、昔の友達と夢中になって話していたと言って、その会話の内容までを詳しく語って聞かせた。それから不思議なことには、この事件が起こる前に、バーグレーヴ夫人は死に関するドレリンコートの著書をちょうどに買っておいた。それからまた、こういうことに注目しなければならない。すなわちバーグレーヴ夫人は心身ともに非常に疲れているにもかかわらず、それを我慢してこの亡霊の話をいちいちみんなに語って聴かせても、けっして一銭も受け取ろうとはしないばかりか、彼女の娘にも人から何ひとつ貰わせないようにしていたので、この物語をしたところで彼女には何の利益もあるはずはないのである。
しかも、亡霊の弟のヴィール氏は、極力この事件を隠蔽《いんぺい》しようとした。一度バーグレーヴ夫人に親しく逢ってみたいと言っていたが、彼は姉のヴィール夫人が死んだのち、船長のワトソンの家までは行っていながら、ついにバーグレーヴ夫人をおとずれなかった。彼の友達らはバーグレーヴ夫人のことを嘘つきだと言い、彼女は前からブレトン氏が毎年十ポンドずつ送って来ることを知っていたのだと言っているが、私の知っている名望家の間では、かえってそんなふうに言い触らしているご本尊のほうが大嘘つきだという評判が立っている。ヴィール氏はさすがに紳士であるだけに、彼女は嘘を言っているとは言わないが、バーグレーヴ夫人は悪い夫のために気違いにされたのだと言っている。しかし彼女がただ一度でも彼に逢いさえすれば、彼の口実を何よりも有効に論駁《ろんばく》するであろう。
ヴィール氏は姉が臨終の間ぎわに何か遺言することはないかと訊《たず》ねると、ヴィール夫人は無いと言ったそうである。なるほど、ヴィール夫人の亡霊の遺言はきわめてつまらないことで、それらを処理するために別に裁判を仰ぐというほどの事件でもなさそうである。それから考えてみると、彼女がそんな遺言めいたことを言ったのは、要するにバーグレーヴ夫人をして自分が亡霊となって現われたという事実を明白に説明させるためと、彼女が見聞した事実談を世間の人たちに疑わせないためと、もう一つには理性の勝《か》った、分別のある人たちの間にバーグレーヴ夫人の評判を悪くさせまいための心遣いであったように思われるのである。
それからまた、ヴィール氏は金貨の財布もあったことを承認しているが、しかし、それは夫人の私室《キャビネット》ではなくて、櫛箱の中にあったと言っている。それはどうも信じ難い気がする。なぜなれば、ワトソン夫人の説明によると、ヴィール夫人は自分の私室の鍵については非常に用心ぶかい人であったから、おそらくその鍵を誰にも預けはしないであろうというのである。もしそうであるとすれば、彼女は確かに自分の私室から金貨を他へ移すようなことはしなかったであろう。
ヴィ
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