でしょうが、あとであなたにもわかる時があります」
 そこで、バーグレーヴ夫人は彼女の懇願を容《い》れるために、ペンと紙とを取りに行こうとすると、ヴィール夫人は、「今でなくてもよろしいのです。私が帰ったあとで書いてください、きっと書いて下さい」と言った。別れる時には彼女はなお念を押したので、バーグレーヴ夫人は彼女に固く約束したのであった。
 彼女はバーグレーヴ夫人の娘のことを尋《たず》ねたので、娘は留守であると言った。「しかし、もし逢ってやって下さるならば、呼んで来ましょう」と答えると、「そうして下さい」と言うので、バーグレーヴ夫人は彼女を残しておいて、隣りの家へ娘を探しに行った。帰って来てみると、ヴィール夫人は玄関のドアの外に立っていた。きょうは土曜日で市《いち》の開ける日であったので、彼女はその家畜市のほうを眺めて、もう帰ろうとしているのであった。
 バーグレーヴ夫人は彼女にむかって、なぜそんなに急ぐのかと訊《たず》ねると、彼女はたぶん月曜日までは旅行に出られないかもしれないが、ともかくも帰らなければならないと答えた。そうして、旅行する前にもう一度、従兄弟《いとこ》のワトソンの家でバーグレーヴ夫人に逢いたいと言った。それから彼女はもうお暇《いとま》をしますと別れを告げて歩き出したが、町の角を曲がってその姿は見えなくなった。それはあたかも午後一時四十五分過ぎであった。

 九月七日の正午十二時に、ヴィール夫人は持病の発作《ほっさ》のために死んだ。その死ぬ前の四時間以上はほとんど意識がなかった。臨床塗油式《サクラメント》はその間におこなわれた。
 ヴィール夫人が現われた次の日の日曜日に、バーグレーヴ夫人は悪感《さむけ》がして非常に気分が悪かった上に、喉《のど》が痛んだので、その日は終日外出することが出来なかった。しかし、月曜の朝、彼女は船長のワトソンの家へ女中をやって、ヴィール夫人がいるかどうかを尋ねさせると、そこの家の人たちはその問い合わせに驚かされて、彼女は来ていない、また来るはずにもなっていないという返事をよこした。その返事を聞いても、バーグレーヴ夫人は信じなかった。彼女はその女中にむかって、たぶんおまえが名前を言い違えたのか、何かの間違いをしたのであろうと言った。
 それから気分の悪いのを押して、彼女は頭巾《ずきん》をかぶって、自分と一面識のない船長ワトソンの
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