す」と言った。その詩のうちには極楽という言葉を二度も使ってあった。
「ああ、詩人たちは天国にいろいろの名をつけていますのね」と、ヴィール夫人は言った。
 そうして、彼女は時どきに眼をこすりながら言った。「あなたは私が持病の発作《ほっさ》のために、どんなにひどく体をこわしているかをご存じないでしょう」
「いいえ。私には、やっぱり以前のあなたのように見えます」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
 すべてそれらの会話は、バーグレーヴ夫人がとてもその通りに思い出して言い現わすことが出来ないほど、非常にあざやかな言葉でヴィール夫人の亡霊によって進行したのであった。
(一時間と四十五分をついやした長い会話を全部おぼえていられるはずもなく、また、その長い会話の大部分はヴィール夫人の亡霊が語っているのである。)
 ヴィール夫人は更にバーグレーヴ夫人にむかって、自分の弟のところへ手紙を出して、自分の指輪は誰だれに贈ってくれ、二カ所の広い土地は彼女の従兄弟《いとこ》のワトソンに与えてくれ、金貨の財布は彼女の私室《キャビネット》にあるということを書き送ってくれと言った。
 話がだんだんに怪しくなってきたので、バーグレーヴ夫人はヴィール夫人が例の発作におそわれているのであろうと思った。ひょっとして椅子から床へ倒れ落ちては大変だと考えたので、彼女の膝の前にある椅子に腰をかけた。こうして、前の方を防いでいれば、安楽椅子の両側からは落ちる気づかいはないと思ったからであった。それから彼女はヴィール夫人を慰めるつもりで、二、三度その上着の袖を持ってそれを褒《ほ》めると、ヴィール夫人はこれは練絹《ねりぎぬ》で、新調したものであると話した。しかも、こうした間にもヴィール夫人は手紙のことを繰り返して、バーグレーヴ夫人に自分の要求を拒《こば》まないでくれと懇願するのみならず、機会があったら今日の二人の会話を自分の弟に話してやってくれとも言った。
「ヴィールさん、私にはあまり差し出がましくて、承諾していいか悪いか分かりません。それに、私たちの会話は若い殿方《とのがた》の感情をどんなに害するでしょう」と、バーグレーヴ夫人は渋るように言って、「なぜあなたご自身でおっしゃらないのです。私はそのほうがずっといいと思います」と付けたした。
「いいえ」と、ヴィール夫人は答えた。「今のあなたには差し出がましいようにお思いになる
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