ていました。わたしのこの幻想的な旅行は、どれだけが現実の世界で、どれだけが幻影であるか、確かには分かりかねますが、わたしたちふたりはカナレイオ河岸の大邸宅に住んでいました。邸内は壁画や彫像をもって満たされ、大家の名作のうちにはティチアーノ(十五世紀より十六世紀にわたるヴェニスの画家)の二つの作品もクラリモンドの室《へや》に掛けてありました。そこは全く王宮とひとしき所でありました。ふたりともに、めいめいゴンドラをそなえていて、家風の定服を着た船頭が付いており、さらに音楽室もあり、特別にお抱えの詩人もありました。
 クラリモンドはいつも豪奢な生活をして自然にクレオパトラの風《ふう》があり、わたしはまた公爵の子息を小姓にして、あたかも十二使徒のうちの一族であり、あるいはこの静かな共和国(ヴェニス)の四人の布教師の家族であるかのごとくに尊敬され、ヴェニスの総督といえども道を避《よ》けるくらいでありました。実に悪魔《サタン》がこの世に降《くだ》って以来、わたしほど傲慢無礼の動物はありますまい。わたしは更にリドへ行って賭博を試みましたが、そこは全く阿修羅《あしゅら》の巷《ちまた》ともいうべきものでした。わたしはあらゆる階級――零落した旧家の子弟、劇場の女たち、狡猾な悪漢、幇間、威張り散らす乱暴者のたぐいを招いて遊びました。
 こんな放蕩生活をしているにも拘《かかわ》らず、わたしはクラリモンドに対しては忠実であり、また熱烈に彼女を愛していました。クラリモンドも大いに満足して愛のかわることはありませんでした。クラリモンドを持っていることは、二十人の女、否《いな》、すべての女を持っているようなものでした。彼女は実に感じ易い性質といろいろの変わった風貌と、新しい生きいきとした魅力とをすべて身に備えて、かのカメレオンのごとき女でありました。人がもしほかの女の美に酔うて淫蕩の心を起こした場合には、彼女は直《ただ》ちにその美女の性格や魅力や容姿を完全に身にまとって、その人に同じ淫蕩の念を起こさせる女でありました。
 彼女はわたしの愛を百倍にして返してくれたのです。この地の若い貴公子や十法官からも華《はな》ばなしい結婚の申し込みがありましたが、それはみな失敗に終わりました。フォスカリ家(ヴェニスの総督たりしフォスカリ・フランセソの一家)の人からも申し込みがありましたが、彼女はそれをも拒絶しました。金は十分に持っているので、彼女は愛のほかには何物をも望んでいませんでした。ただこの愛――青春の愛、純真の愛、それは自分のこころから燃え出した愛、そうして、それが最初であり、また最後であるところの熱情のほかには、なんにも望んでいなかったのです。わたしは全く幸福であるといえたかもしれません。しかし唯《ただ》ひとつの苦しみは、毎夜呪わしい夢魔におそわれることで、貧しい村の司祭として終日自分の乱行を懺悔《ざんげ》し、また滅罪の苦行《くぎょう》をしている有様を夢みるのでした。
 いつも彼女と一緒にいるために安心して、わたしはクラリモンドの変わった様子について別に考えもしませんでしたが、セラピオン師が彼女について語った言葉は時どきにわたしの記憶を喚《よ》び起こして、不安な心持ちを去るというわけにはゆきませんでした。
 どうかすると、クラリモンドの健康が以前のようによくないことがありました。彼女の皮膚は日に日に蒼《あお》ざめて、呼ばれて来た医者たちにもその病症がわからず、どうにも療治のしようがないことがありました。医者たちはみな訳《わけ》のわからない薬をくれましたが、どれも無効で二度と呼ばれた者はありませんでした。彼女の色の蒼さは眼に見えるほどにいや増して、からだはだんだんに冷たく、さきの夜、かの見知らぬ城の中にあったように、白く死んでゆくのでした。わたしはその枯れ死んでゆく姿を見て、言うに言われない苦悶を感じました。彼女はわたしの苦しみに感動して、死ななければならない人間の感ずるような、運命的な微笑を美しく、また悲しそうに浮かべていました。
 ある朝のことでした。わたしは彼女の寝台のそばの小さい食卓で朝食をすませた後、わずかの間も離れてはならないと彼女のそばに腰をかけていました。その時に果物の皮をむいていると、誤まって自分の指に深く切り込んだのです。小さい紫色の血がすぐにほとばしり出て、いくらかクラリモンドにもかかったかと思うと、その顔色は急に変わって、今までの彼女にかつて見たことのない野蛮な、残忍な喜びの表情を帯びて来ました。彼女は動物のような身軽さ――あたかも猿か猫のように軽く飛び降りて、わたしの傷口に飛びついて、いかにも嬉しそうな様子でその血を吸い始めたのです。
 彼女は小さい口いっぱいに――あたかも酒好きの人間がクセレスかシラクサの酒を味わっているように、ゆっくりと注意ぶかく飲むのでした。その瞳《ひとみ》はだんだんに半ばとじられて、緑色の眼の円《まる》い瞳孔《ひとみ》が楕円形にかわって来ました。彼女は時どきにわたしの手に接物するために、血を吸うことをやめましたが、さらに赤い血のにじみ出るのを待って、傷に口唇《くちびる》を持っていくのでした。血がもう出ないのを知ると、彼女の眼は瑞《みず》みずしく輝いて、五月の夜明けよりも薔薇色になって起《た》ち上がりました。顔の色も生きいきとして、手にも温かいうるみが出て、今までよりもさらに美しく、まったく健康体のようになっているのです。
「わたしは死なないわ、死なないわ」と、彼女は半気ちがいのようになって、わたしの頸《くび》にかじりついて叫びました。
「わたしはまだ長い間あなたを愛することが出来るわ。わたしの生命《いのち》はあなたのものです。わたしのからだはすべてあなたから貰ったのです。あなたの尊い、高価な、この世界にあるどの霊薬よりも優れて高価な血のいく滴が、わたしの生命を元の通りにしてくれたのですわ」
 この光景は永く私をおびやかして、クラリモンドについては不思議な疑問を起こさせました。その夜、わたしが寝床にはいると、睡眠は私を誘い出して、むかしの司祭館に連れ戻しました。わたしはセラピオン師が今までよりもいっそう厳粛な不安らしい顔をしているのを見ました。彼は私をじっと見つめていましたが、やがて悲しそうに叫びました。
「あなたは魂を失うばかりではない、今はその身をも失おうとしている。堕落した若い人は、実に恐ろしいことになっている」
 その言葉の調子は私を強く動かしました。しかしその時の印象がまざまざとしていたにもかかわらず、それもすぐに私から消えていって、ほかのさまざまな考えも皆わたしの心から去ってしまいました。

       六

 とうとうある晩のことでした。わたしが鏡を見ていると、その鏡に彼女の姿が映っていることを覚《さと》らずに、クラリモンドはいつも二人の食卓のあとで使うことにしている、薬味《やくみ》を入れた葡萄酒の盃のなかに、何かの粉を入れているのです。それが鏡に映ったので、わたしは盃を手にとって、口のところに持ってゆく真似をして、そばにある器物の上に置きました。彼女がうしろを向いたときに、私はその盃のものをテーブルの下にそっとこぼして、それから自分の部屋に帰って寝床についたのですが、今夜はけっして睡るまい、そうして、このすべての不思議なことについて何かの発見をしようと決心しました。
 間もなくクラリモンドは夜の服を着てはいって来ましたが、服をぬぐとわたしの寝台に這い上がって来て、私のそばに横になりました。彼女はわたしが寝ていることを確かめると、やがてわたしの腕をまくりました。そうして、髪から黄金のピンを抜き取ると、低い声で言いました。
「一滴……ほんの一滴よ。この針のさきへ紅玉《ルビー》ほど……あなたがまだ愛して下さるなら、わたしは死んではならないわ。……ああ、悲しい恋……。あなたの美しい、紫色の輝いた血をわたしは飲まなければならない。お寝《やす》みなさい、わたしの貴い宝……。お寝みなさい、わたしの神様、わたしの坊ちゃん……。わたしはあなたに悪いことをするのではないのよ。わたしは永久に失《な》くならないように、あなたの生命《いのち》を吸わなければならないのよ。わたしはあなたをたいへんに愛していたので、ほかの恋びとの血を吸うことに決めていたの。しかし、あなたを知ってからは、ほかの人たちは忌《いや》になったわ……。ああ、綺麗な腕……。なんという円《まる》い、なんという白い腕でしょう。どうしたらこんなに綺麗な青い血管が刺せるでしょう」
 彼女は独りごとを言いながらさめざめと泣くのです。わたしはその涙がわたしの腕を濡らすのを覚え、彼女がその手でしがみつくのを感じました。そのうちに彼女はとうとう決心して、ピンでわたしの腕を軽く刺して、そこから滲《し》み出る血を吸いはじめました。二、三滴しか飲まないのに、彼女はもうわたしが眼を醒ますのを怖れて、傷口をこすって膏薬を貼って、注意深くわたしの腕に小さい繃帯を巻きつけたので、その痛みはすぐに去りました。
 もう疑う余地はなくなりました。セラピオン師の言葉は間違ってはいませんでした。この明らかな事実を知ったにもかかわらず、わたしはまだクラリモンドを愛さずにはいられませんでした。私はみずから進んで、彼女の不自然な健康を保持させるために、欲しがるだけの生き血をあたえました。そうしてまた、彼女を恐れてもいませんでした。彼女も自分を吸血鬼《ヴァンパイア》と思ってくれるなと歎願するようでした。わたしも今まで見聞したところによって、さらにそれを疑いませんでしたので、一滴ずつの血をそれほどに惜しくも思いませんでした。私はむしろ自分から腕の血管をひらいて、「さあ、飲むがいい。わたしの愛がわたしの血と一緒におまえの血に沁み込んでゆけば何よりだ」と言ったのです。それでも私は、彼女に麻酔するほど飲ませたり、またはピンを刺させたりすることは、常に注意して避けていたので、二人はまったく調和した生活を保っていたのです。
 それでも僧侶として、わたしの良心の呵責《かしゃく》は今まで以上にわたしを苦しめ始めました。わたしはいかなる方法で自分の肉体を抑制し、浄化することが出来るかについて、まったく途方《とほう》に暮れたのです。かの多くの幻覚が無意識の間に起こったにもせよ、直接に私がそれを行なわなかったにもせよ、それが夢であるにせよ、事実であるにせよ、かくのごとき淫蕩に汚《よご》れた心と汚れたる手をもって、クリストの身に触れることは出来ませんでした。
 わたしはこの不快な幻覚に誘われない手段として、睡眠におちいらないことに努めました。わたしは指で自分の眼瞼《まぶた》をおさえ、壁にまっすぐに倚《よ》りかかって何時間も立ちつづけ、出来る限り睡気《ねむけ》と闘いました。しかし睡気は相変わらずわたしの眼を襲って来て我慢がつかず、絶望的な不快のうちに両腕はおのずとおろされて、睡りの波は再びわたしを不誠実の岸へ運んでゆくのでした。
 セラピオン師は最もはげしい訓告をあたえて、わたしの柔弱と、熱意の不足をきびしく責めました。ついにある日、わたしが例よりも更に悩んでいる時に、彼は言いました。
「あなたがこの絶えざる苦悩から逃がれ得るただひとつの道は、非常手段によらなければなりません。大《おお》いなる病苦は大いなる療治を要する。わたしはクラリモンドが埋められている場所を知っている。わたしたちは彼女の亡骸《なきがら》を発掘して見る必要がある。そうして、あなたの愛人がどんな憐れな姿をしているかをご覧なさい。さすれば、あの虫ばんだ不浄の死体――土になるばかりになっている死体のために、あなたの魂を失うようなことはありますまい。かならずあなたを元へ引き戻すに相違ないと思います」
 わたしとしても、たとい一時《いちじ》は満足したとはいえ、二重の生活にはもうあきました。自分は空想の犠牲になっている紳士であるか、または僧侶であるか、ということをはっきり確かめたいと思いました。わたしは自分のうちにあるこの二人に対して、どちらかを殺して他を生
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング