はないのではございませんか」
 これらの言葉が、無限の優しいリズムをもってわたしの耳に流れ込みました。彼女の顔はまったく歌のようで、その眼で物を言っています。そうして、それが本当のくちびるから漏《も》れ出るようにわたしの胸の奥にひびくのでした。
 わたしはもう神様にむかって、僧侶となることを断わりたい心持ちが胸いっぱいでしたが、それでどういうものか、わたしの舌は儀式通りに言ってしまうのです。美しいひとは更にまた、わたしの胸を刺し通す鋭い白刃《しらは》のような絶望の顔や、歎願するような顔を見せるのです。それは「悲しみの聖母」のどれよりも、もっと強い刃でつらぬくような顔つきでありました。
 そのうちにすべての儀式はとどこおりなく終わって、わたしは一個の僧侶になったのであります。
 この時ほど、彼女の顔に深い苦悶《くもん》の色が描かれたのを見たことはありませんでした。婚約した愛人の死を目《ま》のあたり見ている少女も、死んだ子を悲しんで空《から》の乳母車をのぞき込んでいる母も、天界の楽園を追われてその門に立つイヴも、吝嗇《りんしょく》な男が自分の宝と置き換えられた石をながめている時でも、詩人が
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