剃髪《トンシュア》などにしていないで、襟まで垂れている髪を波のようにちぢらせて、立派に伸びた頤鬚《あごひげ》までもたくわえて、優雅な風采でいられるのに……」
 しかも、かの聖壇の前における一時間、その時のわずかな明晰《めいせき》な言葉が、永久にわたしをこの世の人のかずから引き離してしまって、わたしは自分の手で自分の墓の石蓋《いしぶた》をとじ、自分の手で自分の牢獄の門をとじたのでありました。
 わたしはまた窓へ行って見ると、空はうららかに青く晴れて、すべての樹木はみな春のよそおいをして、自然は皮肉な歓楽の行進をつづけています。そこには、多くの人びとが往来して、姿のよい若い紳士や、美しい淑女たちが二人連れで、森や花園の方へそぞろ歩きをしています。元気のいい青年がおもしろそうに酔って歌っています。すべてが快活、生命、躍動の一幅の絵画で、わたしの悲哀と孤独とくらべると実にひどい対照をなしているのです。門の階段のところには、若い母が、自分の子供と遊んでいます。母はまだ乳のしずくの残っている可愛らしい薔薇《ばら》色の口に接吻をしたり、子供を喜ばせるためにいろいろあやしてみたり、母だけしか知らないよ
前へ 次へ
全65ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング