を見せました。その眼は詩のように、眼の動きは歌のように思われたのです。
 彼女はその眼でわたしに言いました。
「もしあなたがわたしのもの[#「もの」に傍点]になって下さるなら、神が天国にいますよりも、もっと幸福にしてあげます。天使たちがあなたに嫉妬を感じるほどにしてあげます。あなた自身を包もうとしている、あの喪服を引っぱがしておしまいなさい。わたしは美しいのです。わたしは若いのです。わたしには命があるのです。わたしのところへ来て下さい。お互いに愛します。エホバの神は何をあなたに上げるのでしょう。なんにもくれますまい。わたしたちのいのちは、ただ一度の接吻《せっぷん》のあいだに夢のように過ぎてしまいます。あの聖餐盃《チャリース》を投げ出しておしまいなさい。そうして、自由におなりなさい。わたしはあなたを遠い島へお連れ申します。あなたは、銀の屋根の建物の下で、大きい黄金《おうごん》の寝台の上で、わたしのふところで寝られます。わたしはあなたを愛しております。わたしはあなたを神様より奪ってしまいたいのです。これまでどれだけの尊い人たちが愛の血をそそいだかもしれませんが、誰も神様のそばにも近寄った者はないのではございませんか」
 これらの言葉が、無限の優しいリズムをもってわたしの耳に流れ込みました。彼女の顔はまったく歌のようで、その眼で物を言っています。そうして、それが本当のくちびるから漏《も》れ出るようにわたしの胸の奥にひびくのでした。
 わたしはもう神様にむかって、僧侶となることを断わりたい心持ちが胸いっぱいでしたが、それでどういうものか、わたしの舌は儀式通りに言ってしまうのです。美しいひとは更にまた、わたしの胸を刺し通す鋭い白刃《しらは》のような絶望の顔や、歎願するような顔を見せるのです。それは「悲しみの聖母」のどれよりも、もっと強い刃でつらぬくような顔つきでありました。
 そのうちにすべての儀式はとどこおりなく終わって、わたしは一個の僧侶になったのであります。
 この時ほど、彼女の顔に深い苦悶《くもん》の色が描かれたのを見たことはありませんでした。婚約した愛人の死を目《ま》のあたり見ている少女も、死んだ子を悲しんで空《から》の乳母車をのぞき込んでいる母も、天界の楽園を追われてその門に立つイヴも、吝嗇《りんしょく》な男が自分の宝と置き換えられた石をながめている時でも、詩人がたましいをこめた、ただひとつの原稿を何かのために火に焚《や》こうとしている時でも、この時における彼女ほどには、あきらめ切れないような絶望の顔を見せないであろうと思われました。彼女の愛らしい顔にすっかり血の色が失せて、大理石よりも白くなりました。美しい二つの腕は筋肉のゆるんだように、体の両方に力なく垂れてしまいました。柔順《すなお》な足も今は自由にならなくなって、彼女は何か力と頼むべき柱をさがしていました。
 わたしはといえば、これも死人のような青白い色をして、教会のドアの方へよろめいて行きましたが、あのクリストの磔刑《はりつけ》の像よりも更に血の汗を浴びて、まるで首を絞《し》められている人のように感じました。円天井はわたしの肩の上へひら押しに落ちかかって来て、わたしの頭だけでこの円天井のすべての重みを支《ささ》えているようでありました。
 ちょうど、わたしが教会の閾《しきい》をまたごうとする時でした。突然に一つの手がわたしの手を握ったのです。それは女の手です。わたしはこれまでに女の手などにふれたことはありませんでしたが、その時わたしに感じたのは蛇の肌にさわったような冷たい感じで、その時の感じはいまだに掌《て》の上に、熱鉄の烙印《やきいん》を押したように残っています。それは彼女の手であったのです。
「不幸なかたね。ほんとうに不幸なかた……。どうしたということです」と、彼女は低い声を強めて言って、すぐに人込みのなかに消えて行ってしまいました。
 老年の司教がわたしのそばを通りかかりました。彼は何かわたしを冷笑するようなけわしい眼を向けて行きました。わたしはよほど取りみだした顔つきをしていたらしく、顔を赤くしたり、青くしたりして、まぶしい光りが眼の前にきらめくように感じました。そのうちに、一人の友達がわたしに同情して、わたしの腕をとって連れ出してくれました。わたしはもう誰かに扶《たす》けられないでは、学寮へ帰ることが出来ないくらいでした。
 町の角で、わたしの若い友達が何かよその方へ気をとられて振りむいている刹那《せつな》に、風変わりの服装をした黒人の召仕《ページ》がわたしに近づいて来て、歩きながらに金色のふちの小さい手帳をそっと渡して、それをかくせという合図をして行きました。わたしはそれを袖のなかに入れて、わたしの居間でただひとりになるまで隠しておきました。
 独《ひと
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