って、わたしの煩悶はだんだんに嵩《こう》じてきて、自分はいま何をしているか分からないくらいになったからでした。それにもかかわらず、次の瞬間にはまたもや眼をあげて、睫毛《まつげ》のあいだから彼女を見ました。すると、誰しも太陽を見つめる時、むらさき色の半陰影が輪を描くように、彼女はすべて虹色《にじいろ》にかがやいていました。
 ああ、なんという美しさであろう。偉大なる画家は、理想の美を天界に求めて、地上に聖女の真像を描きますが、今わたしの眼前にある自然のほんとうの美しさに近い描写はまだ見いだされません。いかなる詩句といえども、画像の絵具面《パレット》といえども、彼女の美を写してはいませんでした。彼女はやや脊丈《せい》の高い、女神のような形と態度とを有していました。やわらかい金色《こんじき》な髪をまん中で二つに分け、それが金の波を打つ二つの河になって両方の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に流れているところは、王冠をいただく女王のように見えました。額《ひたい》は透き通った青みのある白さで、二つのアーチ形をした睫毛の上にのび、おのずからなる快活な輝きを持つ海緑色の瞳《ひとみ》をたくみに際立《きわだ》たしているのでした。ただ不思議に見えたのは、その眉がほとんど黒いことでした。それにしても、なんという眼でしょう。ただ一度のまたたきだけでも、一人の男の運命を決めることのできる眼です。今までわたしが人間に見たことのない、清く澄んだ、熱情のある、うるんだ光りを持つ、生きいきした眼でありました。
 二つの眼は矢のように光りを放ちました。それがわたしの心臓に透るのをはっきりと見たのです。わたしはその輝いている眼の火が、天国より来たものか、あるいは地獄から来たものかを知りませんが、いずれかから来ているに相違ありません。彼女は天使《エンジェル》か、悪魔《デモン》かでありました。おそらく両方であったろうと思います。たしかに彼女は普通の女から――すなわちイヴの腹から生まれたのではありませんでした。光沢《つや》のある真珠の歯は、愛らしい微笑のときに光りました。彼女が少しでも口唇《くちびる》を動かすときに、小さなえくぼが輝く薔薇《ばら》色の頬に現われました。優しい整った鼻は、高貴の生まれであることを物語っていました。
 半分ほどあらわに出した滑《なめ》らかな光沢のある二つの肩には、瑪瑙《めのう》と大きい真珠の首飾りが首すじの色と同じ美しさで光っていて、それが胸の方に垂れていました。時どきに彼女があふれるばかりの笑いを帯びて、驚いた蛇か孔雀《くじゃく》のように顔を上げると、それらの宝石をつつんだ銀格子のような高貴な襞襟《ひだえり》が、それにつれて揺れるのでした。彼女は赤いオレンジ色のビロードのゆるやかな着物をつけていました。貂《てん》の皮でふちを取った広い袖《そで》からは、光りも透き通るほどのあけぼのの女神の指のような、まったく理想的に透明な、限りなく優しい貴族風の手を出していました。
 これらの細かいことは、その時わたしが非常に煩悶していたのにかかわらず、何ひとつ逃《の》がさずに、あたかもきのうのことのように明白に思い出します。顎《あご》のところと口唇の隅にあった極めてわずかな影、額の上のビロードのようなうぶ毛、頬にうつる睫毛のふるえた影、すべてのものが、驚くほどにはっきりと語ることができるのです。
 それを見つめていると、わたしは自分のうちに今まで閉《と》じられていた門がひらくのを感じました。長い間さえぎられていた口があいて、すべてのものが明らかになり、今まで知らなかった内部のものが見えるようになったのです。人生そのものがわたしに対して新奇な局面をひらきました。わたしは新しい別の世界、いっさいが変わっているところに生まれて来たと思ったのです。恐ろしい苦悩が赤く灼《や》けた鋏《はさみ》をもって、わたしの心臓を苦しめ始めました。絶え間なく続いている時刻がただ一秒のあいだかと思われると、また一世紀のように長くも思われます。
 そのうちに儀式は進んでゆく。わたしはその時、山でも根こぎにするほどの強い意志の力を出して、わたしは僧侶などになりたくないと叫び出そうとしましたが、どうしてもそれが言えないのです。わたしは自分の舌が上顎《うわあご》に釘づけにでもなったくらいで、いや[#「いや」に傍点]だというい[#「い」に傍点]の字も言うことができなかったのです。それはちょうど夢におそわれた人が命がけのことのために、なんとかひと声叫ぼうとあせっても、それができ得ないのと同じことで、わたしは現在目ざめていながらも叫ぶことが出来なかったのです。
 彼女はわたしが殉道に身を投じてゆく破目《はめ》になるのを知って、いかにも私に勇気づけるように、力強い頼みがいのある顔
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