。
窓をあけようと思って、貫木《かんぬき》に手をかけましたが、それは地面から非常に高い所にありますので、別に梯子《はしご》を見つけない限りは、この方法で逃げ出すことは無駄であることが分かりました。その上に、どうしても夜ででもなければ、そこから降りられそうもないのです。それからまた、あの迷宮のように複雑な街の様子も分かりかねるのでありました。これらの困難は、他人にとってはさほどむずかしいとは思われないのでしょうが、わたしにとっては非常に困難の仕事であったのです。それというのは、わたしはつい前の日に、生まれて初めて恋に落ちたばかりの学徒で、経験もなければ金も持たない、衣服も持たない、あわれな身の上であったからです。
わたしは盲目にひとしい自分にむかって、ひとりごとを言いました。
「ああ、もし自分が僧侶でなかったなら、毎日でもあの女《ひと》に逢うことも出来る。そうして、あの女の恋人となり、あの女の夫になっていられるのだが……。こんな陰気な喪服の代りに、絹やビロードの着物を身にまとって、金のくさりや剣をつけて、ほかの若い騎士たちのように美しい羽毛をつけていられるのに……。髪もこんなぶざまな剃髪《トンシュア》などにしていないで、襟まで垂れている髪を波のようにちぢらせて、立派に伸びた頤鬚《あごひげ》までもたくわえて、優雅な風采でいられるのに……」
しかも、かの聖壇の前における一時間、その時のわずかな明晰《めいせき》な言葉が、永久にわたしをこの世の人のかずから引き離してしまって、わたしは自分の手で自分の墓の石蓋《いしぶた》をとじ、自分の手で自分の牢獄の門をとじたのでありました。
わたしはまた窓へ行って見ると、空はうららかに青く晴れて、すべての樹木はみな春のよそおいをして、自然は皮肉な歓楽の行進をつづけています。そこには、多くの人びとが往来して、姿のよい若い紳士や、美しい淑女たちが二人連れで、森や花園の方へそぞろ歩きをしています。元気のいい青年がおもしろそうに酔って歌っています。すべてが快活、生命、躍動の一幅の絵画で、わたしの悲哀と孤独とくらべると実にひどい対照をなしているのです。門の階段のところには、若い母が、自分の子供と遊んでいます。母はまだ乳のしずくの残っている可愛らしい薔薇《ばら》色の口に接吻をしたり、子供を喜ばせるためにいろいろあやしてみたり、母だけしか知らないよ
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