たましいをこめた、ただひとつの原稿を何かのために火に焚《や》こうとしている時でも、この時における彼女ほどには、あきらめ切れないような絶望の顔を見せないであろうと思われました。彼女の愛らしい顔にすっかり血の色が失せて、大理石よりも白くなりました。美しい二つの腕は筋肉のゆるんだように、体の両方に力なく垂れてしまいました。柔順《すなお》な足も今は自由にならなくなって、彼女は何か力と頼むべき柱をさがしていました。
わたしはといえば、これも死人のような青白い色をして、教会のドアの方へよろめいて行きましたが、あのクリストの磔刑《はりつけ》の像よりも更に血の汗を浴びて、まるで首を絞《し》められている人のように感じました。円天井はわたしの肩の上へひら押しに落ちかかって来て、わたしの頭だけでこの円天井のすべての重みを支《ささ》えているようでありました。
ちょうど、わたしが教会の閾《しきい》をまたごうとする時でした。突然に一つの手がわたしの手を握ったのです。それは女の手です。わたしはこれまでに女の手などにふれたことはありませんでしたが、その時わたしに感じたのは蛇の肌にさわったような冷たい感じで、その時の感じはいまだに掌《て》の上に、熱鉄の烙印《やきいん》を押したように残っています。それは彼女の手であったのです。
「不幸なかたね。ほんとうに不幸なかた……。どうしたということです」と、彼女は低い声を強めて言って、すぐに人込みのなかに消えて行ってしまいました。
老年の司教がわたしのそばを通りかかりました。彼は何かわたしを冷笑するようなけわしい眼を向けて行きました。わたしはよほど取りみだした顔つきをしていたらしく、顔を赤くしたり、青くしたりして、まぶしい光りが眼の前にきらめくように感じました。そのうちに、一人の友達がわたしに同情して、わたしの腕をとって連れ出してくれました。わたしはもう誰かに扶《たす》けられないでは、学寮へ帰ることが出来ないくらいでした。
町の角で、わたしの若い友達が何かよその方へ気をとられて振りむいている刹那《せつな》に、風変わりの服装をした黒人の召仕《ページ》がわたしに近づいて来て、歩きながらに金色のふちの小さい手帳をそっと渡して、それをかくせという合図をして行きました。わたしはそれを袖のなかに入れて、わたしの居間でただひとりになるまで隠しておきました。
独《ひと
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