みえない手につかみ去られるように消え失せてしまった。
 わたしは片手に短銃、かた手に匕首を持って跳《と》び起きた。時計とおなじように、この二つの武器をも奪われてはならないと思ったからである。こう用心して床の上を見まわしたが、どこにも時計は見えなかった。このとき枕もとでしずかに、しかも大きく叩く音が三つ聞こえた。
「旦那。あなたですか」と、次の部屋でFが呼びかけた。
「いや、おれではない。おまえも用心しろ」
 犬は今起きあがって、からだを立てて坐った。その耳を左右に早く動かしながら、不思議な眼をして私を見つめているのが、わたしの注意をひいた。犬はやがてしずかに身を起こしたが、なおまっすぐに立ったままで、総身《そうみ》の毛を逆立《さかだ》たせながら、やはりあらあらしい眼をして私をじっと見つめていた。しかも、私は犬のほうなどを詳しく検査している暇《ひま》はなかった。Fがたちまちに自分の部屋からころげ出して来たのである。
 人間の顔にあらわれた恐怖の色というものを、私はこのときに見た。もし往来で突然出逢ったならば、おそらく自分の雇い人とは認められないであろうと思われるほどに、Fの相好《そうごう
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