で、どこにどうしているかよく判りませんでした。
 それが今年の六月の末になって、突然に手紙をよこしまして、自分は門司《もじ》に芸妓をしているが、この頃はからだが悪くて困るから、しばらく実家へ帰って養生をしたいと思う。ついては兄さんかおっ母さんが出て来て、抱え主にそのわけを話してもらいたいというのです。からだが悪いと聞いてはそのままにもしておかれないので、母とも相談の上で、今度はわたくしが門司まで出かけて行きまして、抱え主にもいろいろ交渉して、ともかくもひとまず妹を連れてくることにして、きょうこの停車場へ着いて、あなたと同じ馬車で帰る途中、御承知の通りの始末で、どこへか消えてしまったのです。実に仕様のない奴で、親泣かせ、兄弟泣かせ、なんともお話になりません。家にいたときは三味線の持ちようも知らない奴でしたが、方々を流れあるいているうちに、どこでどう習ったのか、今では曲りなりにも芸妓をして、昔とはまるで変った人間になっているのです。」
 それにしても、ここまで自分と一緒に帰って来て、なぜ再び姿を隠したのか、その理屈がわからないと良次は言った。僕にもちょっと想像が付かなかった。そのうちに僕の町へ行き着いたので、僕はカバンを持ってくれた礼をいって、気の毒な兄と別れた。
 その後、その妹はどうしたか、僕も深く詮議するほどの興味を持たなかったので、ついそのまま過ぎていたのだが、いま偶然にその人らしい姿を見つけて、しかもそれが市野と連れ立って行くのをみたので、僕もすこし考えさせられた。
 しかし、わざわざ彼等のあとを尾《つ》けて行って、それを確かめる程の好奇心も湧き出さなかったので、僕は再び水の方に向き直って自分の釣りに取りかかったが、市野の言ったような大きいすずきは勿論のこと、小ざかな一匹もかからないので、僕ももう忍耐力をうしなった。
「帰ろう、帰ろう。つまらない。」
 ひとりごとを言いながら釣道具をしまった。宵闇の長い堤をぶらぶら戻ってくると、僕をじらすように大きい魚の跳ねあがる音が暗い水の上で幾たびかきこえた。そこらの草のなかには虫の声が一面にきこえる。東京はまだ土用が明けたばかりであろうが、ここらは南の国といってもやはり秋が早く来ると思いながら、からっぽうの魚籠《びく》をさげて帰った。いや、帰ったといっても、ようよう半道ばかりで、その辺から川筋はよほど曲っていくので、僕は堤の芒にわかれを告げて、堤下の路を真っ直ぐにあるき出すと、暗いなかから幽霊のようにふらふらと現われたものがある。思わず立ちどまって窺ってみると[#「窺ってみると」は底本では「窮ってみると」]、この暗やみでどうして判ったのか知らないが、その人は低い声で言った。
「秋坂さんじゃございませんか。」
 それは若い女の声であった。
 尾花川の堤にはときどきに狐が出るなどというが、まさかそうでもあるまいと多寡《たか》をくくって、僕は大胆に答えた。
「そうです。僕は秋坂です。」
 幽霊か狐のような女は、僕のそばへ近寄って来た。
「先日はどうも失礼をいたしました。」
 暗いなかで顔かたちはわからないが、僕ももう大抵の鑑定は付いた。
「あなたは勝田の妹さんですか。」
「そうでございます。」
 果して彼女は勝田良次の妹の芸妓であった。と思う間もなく、女はまた言った。
「あなたはこれから町の方へお帰りでございますか。」
「はあ。これから家《うち》へ帰ります。」
「では、御一緒にお供させていただけますまいか。わたくしも町の方まで参りたいのですが。」と、女は僕の方へいよいよ摺[#「摺」は底本では「擢」]り寄って来た。
 いやだともいえないのと、この女から何かの秘密を聞き出してやりたいというような興味もまじって、僕は彼女と列んで歩き出した。
「あなたは前から市野さんを御存じですか。」と、女は訊いた。
 市野と一緒にあるいていたのは、この女であったことがいよいよ確かめられた。それからだんだん話してみると、この女も芒のかげに忍んでいて、市野と僕との会話をぬすみ聞いていたらしかった。そうして、僕が秋坂という人間であることを市野の口から教えられたらしかった。さもなければ、彼女が僕の名を知っているはずがない。いずれにしても、僕は子どもの時から市野を知っていると正直に答えた。しかし自分は近年東京に出ていて、彼と一年に一度会うぐらいのことであるから、その近状についてはなんにも知らないと、あらかじめ一種の予防線を張っておいた。
「今夜もこれから市野君のところへ行くんですか。」と、僕は空とぼけて訊いた。
「実はもう少し前まで一緒にいたんですが……。もう今頃は死んでしまったでしょう。」
 僕もおどろいた。なにぶんにも暗いので、彼女がどんな顔をしているか、どんな姿をしているか、もちろん判断は付かないのであるが、平気
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