りませんね。」
「そりゃそうですとも……。」
「あなたも釣りですか。」と、僕は訊いた。
「いいえ。」と、言ったばかりで、彼はすこしく返事に困っているらしかったが、やがてまた笑いながら言った。「虫を捕りに来たんですよ。」
「虫を……。」
「近所の子供にもやり、自分の家にも飼おうと思って、きりぎりすを捕りに来たんです。まあ、半分は涼みがてらに……。あなたの釣りと同じことですよ。」
きりぎりすを捕るだけの目的ならば、わざわざここまで来ないでも、もっと近いところにいくらでも草原はあるはずだと僕は思った。勿論、涼みがてらというならば格別であるが、それにしても彼は虫を捕るべき何の器械をも持っていない。網も袋も籠も用意していないらしい。すこし変だと思ったが、僕にとってはそれが大した問題でもないから、深くは気にも留めないでいると、市野は芒をかきわけて僕のそばへ近寄って来た。
「そこに浮いているのは幽霊藻じゃありませんか。」
「幽霊藻ですよ。」と、僕は水のうえを指さした。「今じゃあ怖がる者もないでしょうね。」
「ええ、われわれの子どもの時と違って、この頃じゃあ幽霊藻を怖がる者もだんだんに少なくなったようですよ。しかしほかの土地にはめったにない植物だとかいって、去年も九州大学の人たちが来てわざわざ採集して行ったようですが、それからどうしましたか。」
「これが貴重な薬草だということが発見されるといいんですがね。」と、僕は笑った。
「そうなるとしめたものですが……。」と、彼も笑った。
それからふた言三言話しているうちに、彼はにわかに気がついたようにうしろを見かえった。
「いや、どうもお妨げをしました。まあ、たくさんお釣りなさい。」
市野は低い堤をあがって行った。水の上はまだ明るいが、芒の多い堤の上はもう薄暗く暮れかかっている。僕は何心なく見かえると、その芒の葉がくれに二つの白い影がみえた。ひとつは市野に相違なかったが、もう一つの白い影は誰だか判らない。しかしそれが女であることは、うしろ姿でもたしかに判った。
虫を捕りに来たなどというのは嘘の皮で、市野はここで女を待合せていたのかと、僕はひとりでほほえんだ。それと同時に、このあいだ乗合馬車から姿をかくしたあの芸妓のことがふと僕のあたまに浮かんだ。夕方のうす暗いときに、ただそのうしろ姿を遠目に見ただけで、市野の相手がどんな女であるか、もちろん判ろうはずはないのだが、不思議にその女があの芸妓らしく思われてならなかった。なぜそう思われたのか、それは僕自身にも判らない。
市野は別に親友というのでもないから、彼がどんな女にどんな関係があろうとも、僕にとっては何でもないことであるが、相手の女が果してあの芸妓であるとすると、僕はすこし考えなければならなかった。
三
このあいだ僕が道連れになった青年は、この川沿いのKB村の勝田良次という男で、本来は農家であるが、店では少しばかりの荒物を売り、その傍らには店のさきに二脚ほどの床几《しょうぎ》をならべて、駄菓子や果物やパンなどを食わせる休み茶屋のようなこともしているのだ。
「いっそ農一方でやっていく方がいいのですが、祖父の代から荒物屋だの休み茶屋だの、いろいろの片商売をはじめたので、今さら止めるわけにも行かず、却ってうるさくて困ります。それがために妹までが碌でもない者になってしまいました。」と、かれは僕のカバンをさげて歩きながら話した。
店でいろいろの商売をしているので、妹のおむつは小学校に通っている頃から、店の手伝いをして荒物を売ったり、客に茶を出したりしているうちに、誰かにそそのかされたとみえて、十四の秋になって何処へか奉公に出たいと言い出した。勝田の家は母のお種と総領の良次、妹のおむつと弟の達三の四人ぐらしで、良次と達三は田や畑の方を働き、店の方はお種とおむつが受持っているのであるから、ひとりでも人が欠けては手不足を感じるので、母も兄弟もおむつを外へ出すことを好まなかった。家じゅうが総反対で、とても自分の目的は達せられないと見て、おむつは無断で姿をかくした。
「そのときは心配しましたよ。」と、良次は今更のように嘆息した。「それから手分けをして、妹の行くえを探しましたが、なかなか知れません。とうとう警察の手をかりて、その翌年の三月になって、初めて妹の居どころが判ったのですが……。妹は熊本に近いある町の料理屋へ酌婦に住み込んでいたのです。わたくしはすぐに駈けつけて、その前借金を償《つぐな》って、一旦実家へ連れて帰ったのですが、ふた月三月はおとなしくしているかと思うとまた飛び出す。その都度《つど》に探して歩く。連れて帰る。そんなことがたびたび重なるので、母もわたくしももう諦めてしまって、どうとも勝手にしろと打っちゃって置くと、五年あまりも音信不通
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