もうなんにも口が利けないんです。
今夜こそは最後の談判で、相手の返事次第でこっちにも覚悟があると、わたくしは家を出るときから帯のあいだに剃刀を忍ばせていましたので、畜生とただひとこと言ったばかりで、いきなりにその剃刀で男の頸筋から喉へかけて力まかせに斬り付けると、相手はなんにも言わずに、ぐったりと倒れてしまいました。それでもまだ不安心ですから、そのからだを押し転がして、川のなかへ突き落して置いて、自分もあとから続いて飛び込もうと思いましたが、また急に考え直して、町の警察へ自首するつもりで暗い路をひとりで行く途中、ちょうどあなたにお目にかかったんです。飛んだ道連れになって、さだめし御迷惑でございましょうが、実は警察がどの辺にあるか存じませんので、あなたに御案内を願いたいのでございます。」
女の話はまずこれで終った。
実際、僕も迷惑を感じないでもなかったが、さりとて冷やかに拒絶するにも忍びないような気がしたので、素直に承知して警察まで一緒に行くことになった。その途中で女は又こんなことを言った。
「ゆうべも、いつもの官女が枕もとへ来ました。」
水中の幽鬼の影が女のうしろに付き纏っているようにも思われて、気の弱い僕はまたぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
尾花川堤の人殺しは、狭い町の大評判になった。殊にその加害者が芸妓というのだから、その噂はいよいよ高くなった。その当夜、現場で被害者に出逢ったのは僕ひとりで、また一方には加害者を警察まで送って来た関係もあるので、僕は唯一《ゆいいつ》の参考人として警察へも幾たびか呼び出された。予審判事の取調べも受けた。そんなわけで、九月の学期が始まる頃になっても、僕は上京を延引しなければならないことになった。
十月になって、僕はいよいよ上京したが、彼女の裁判はまだ決定しなかった。あとで聞くと、あくる年の四月になって、刑の執行猶予を申渡されて、無事に出獄したそうだ。裁判所の方でもいろいろの情状を酌量されたらしい。
しかし彼女は無事ではなかった。家へ帰るころには例の病いがだんだん重くなって、それからふた月ほどもどっと床に着いていたが、六月末の雨のふる晩に寝床を這い出して、尾花川の堤から身を投げてしまった。人殺しの罪を償《つぐな》うためか、それとも病苦に堪えないためか、それらを説明するような書置なども残してなかった。
あくる日、その死
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