にでも行ったと思ったらしく、当座のお小遣いにしろといって十五円くれましたので、わたくしはそれを押し戻して、お金なんぞは一文もいらないから、どうぞ元々通りになってくれと言いますと、市野さんはいよいよ迷惑そうな顔をして、なんともはっきりした返事をして聞かせないんです。
 それでその晩はうやむやに別れてしまったんですが、わたくしの方ではどうしても諦められないので、一日置きに町の病院まで通って行くのを幸いに、その都度きっと市野さんの店へたずねて行って、男を表へよび出して、どうしても元々通りになってくれとうるさく責めるので、市野さんもよくよく持て余したとみえて、今夜も尾花川の堤へ来て、いよいよ何とか相談をきめるということになりました。
 日の暮れるのを待ちかねて、わたくしは堤の芒をかきわけて行くと、あなたが先に来て釣りをしておいでなさる。そこがいつも市野さんと逢う場所なので、よんどころなく芒のかげにかくれて、市野さんの来るのを待っていると、やがてやって来て、しばらくあなたと話しているので、わたくしも焦れったくなって芒のかげから顔を出すと、市野さんも気がついて、いい加減にあなたに挨拶して別れて、わたくしと一緒に川下の方へ行くことになりました。
 市野さんはお前がそれほどに言うならば、元々通りになってもいい。いっそ両親にわけを話して、表向きに結婚してもいい。しかし今のように病院通いの身の上では困る。まずその悪い病気を癒してしまった上でなければ、どうにもならない。ついては、おまえの病毒は普通の注射ぐらいでは癒らない。わたしが多年研究している秘密の薬剤があって、それを飲めばきっと癒るから、ふた月ほども続けて飲んでくれないかと言うんです。
 わたくしはすぐに承知して、ええ、そんな薬があるならば飲みましょうと言うと、市野さんは袂から小さい粉薬《こぐすり》の壜を出して、これは秘密の薬だから決して人に見せてはいけない、飲んでしまったら空壜を川のなかへほうり込んでしまえという。その様子がなんだか怪しいので、わたくしは片手で男の袖をしっかり掴んで、あなた、ほんとうにこの薬を飲んでもいいんですかと念を押すと、市野さんはすこしふるえ声になって、なぜそんなことを訊くのだと言いますから、わたくしは掴んでいる男の袖を強く引っ張って、あなた、これは毒薬でしょうと言うと、市野さんはいよいよ慄《ふる》え出して、
前へ 次へ
全21ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング