な寝かせてしまって、秋山は庭にむかった四畳半の小座敷にはいって、小さい机の前に坐った。御用の書類などを調べる時には、いつもこの四畳半に閉じこもるのが例であった。
秋の夜はいよいよ更けて、雨の音はまだ止まない。秋山は御用箱の蓋《ふた》をあけて、ひと束の書類を取出した。彼は吟味与力の一人であるから、自分の係りの裁判が十数件も畳まっている。そのなかで、あしたの白洲《しらす》へ呼出して吟味する筈の事件が二つ三つあるが、秋山はその下調べをあと廻しにして、他の一件書類を机の上に置きならべた。それは本所柳島村の伊兵衛殺しの一件であった。
この月の三日の宵に、柳島の町と村との境を流れる小川のほとりで、村の百姓助蔵のせがれ伊兵衛という者が殺されていた。伊兵衛はことし二十二で、農家の子ではあるが瓦《かわら》焼きの職人となって、中の郷の瓦屋に毎日通っていると、それが何者にか鎌で斬り殺されて、路ばたに倒れていたのである。下手人《げしゅにん》はまだ確かには判らないが、村の百姓甚右衛門のせがれ甚吉というのが先ず第一の嫌疑《けんぎ》者として召捕られた。
甚吉が疑いを受けたのは、こういう事情に拠るのであった。同じ百姓とはいいながら、甚吉と伊兵衛とは家柄も身代もまったく相違して、甚吉の家はここらでも指折りの大百姓であったが、二人は子供のときに同じ手習師匠に通っていたという関係から、生長の後にも心安く附合っていた。伊兵衛は職人だけに道楽をおぼえて、天神橋の近所にある小料理屋などへ入り込むうちに、かの甚吉をも誘い出して、このごろは一緒に飲みにゆくことが多かった。
同年の友達ではあるが、甚吉は比較的に初心《うぶ》である上に双方の身代がまるで違っているので、甚吉は旦那、伊兵衛はお供という形で、料理屋の勘定などはいつも甚吉が払わせられていた。そのうちに伊兵衛の取持ちで、甚吉は亀屋という店に奉公しているお園という女と深い馴染みになって、少なからぬ金をつぎ込んでいると、それを気の毒に思って、ひそかに彼に注意をあたえる者があった。お園と伊兵衛とはその以前から特別の関係が成立っていて、かれらは共謀して甚吉を籠絡《ろうらく》し、その懐ろの銭を搾り取って、蔭では舌を出して笑っているというのである。それが果してほんとうであるかないか、甚吉もまだ確かな証拠を見届けたわけではないが、そんな噂を聞いただけでも彼は内心甚だ
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