来にほとんど灯のかげは見えなかったが、その時代の人は暗い夜道に馴れているので、中間の持っている提灯一つの光りをたよりに、秋山は富島町と川口町とのあいだを通りぬけて、亀島橋にさしかかった。
 橋の上は風も強い。秋山は傘を傾けて渡りかかると、うしろから不意に声をかけた者があった。
「旦那の御|吟味《ぎんみ》は違っております。これではわたくしが浮かばれません。」
 それは此の世の人とも思われないような、低い、悲しい声であった。秋山は思わずぞっとして振返ると、暗い雨のなかに其の声のぬしのすがたは見えなかった。
「仙助。あかりを見せろ。」
 中間に提灯をかざさせて、彼はそこらを見廻したが、橋の上にも、橋の袂にも、人らしい者の影は見いだされなかった。
「おまえは今、なにか聞いたか。」と、秋山は念のために中間に聞いてみた。
「いいえ。」と、仙助はなにも知らないように答えた。
 秋山は不思議に思った。極めて細い、微かな声ではあったが、雨の音にまじって確かに自分の耳にひびいたのである。それとも自分の空耳で、あるいは雨か風か水の音を聞きあやまったのかも知れないと、彼は半信半疑で又あるき出した。八丁堀へゆき着いて、玉子屋新道にはいろうとすると、新道の北側の角には玉円寺という寺がある。
 その寺の門前で犬の激しく吠える声がきこえた。
「黒め、なにを吠えていやがる。」と、仙助は提灯をさし付けた。
 その途端に、秋山のうしろから又もや怪しい声がきこえた。
「旦那の御吟味は違っております。」
「なにが違っている。」と、秋山はすぐ訊きかえした。「貴様はだれだ。」
「伊兵衛でござります。」
「なに、伊兵衛……。貴様は一体どこにいるのだ。おれの前へ出て来い。」
 それには何の答えもなかった。ただ聞えるものは雨の音と、寺の塀から往来へ掩いかかっている大きい桐の葉にざわめく風の音のみであった。犬は暗いなかでなお吠えつづけていた。
「仙助、お前は何か聞いたか。」
「いいえ。」と、仙助はやはり何にも知らないように答えた。
「それでも、おれの言う声はきこえたろう。」
「旦那さまの仰しゃったことはよく存じております。初めに誰だといって、それから又、伊兵衛と仰しゃりました。」
「むむ。」
 言いかけて、秋山はなにか急に思い付いたことがあるらしく、それぎり黙って足早にあるき出して自分の屋敷の門をくぐった。家内の者をみ
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