お目にかかれまいと言って帰りました。あとで考えると、よそながら暇乞いに来たらしい。それを思うと、突然の発狂などではなくて、前々から覚悟していたのでしょう。その日はあいにくに、次郎も娘も留守だったものですから、皆さんにお目にかかれないのが残念だなどとも言っていました。」
奥さんは更にこんなことを私に洩らした。
「あなただからお話を申しますけれど、多代子さんの死骸が海から引揚げられた時に、警察で検視をすると、左の二の腕に小さい蛇の刺青《ほりもの》があったので、みんなも不思議に思ったそうです。立派な実業家の奥さんの腕に刺青があったのですから、誰でも意外に思う筈です。勿論、深見さんの方から警察へ頼んだので、刺青のことなぞは一切《いっさい》発表されませんでしたから、その秘密を知っているのは私たちぐらいでしょう。新聞社でもさすがに気がつかないようでした。」
「多代子さんはいつそんな刺青をしたんでしょう。」と、わたしも意外に思いながら訊いた。
「それは判りません。」と、奥さんは答えた。「わたしの家にいるときに、そんな刺青のなかったのは確かですから、深見さんへ縁付いてからのことに相違ありませんが、そ
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