でありながら、時どきに妹が憎くなるというのはどういうわけでしょうかねえ。そんなことを言うと変ですけれど、あの人たちには何かの呪詛《のろい》が付きまとってでもいるのじゃあないでしょうか。汽車の中のお話を聞いて、わたしには何だかそう思われてならないのですよ。」
奥さんはまじめに言った。何かの呪詛、何かの祟《たた》り――それを笑うことも出来ないほどに、その当時の私は一種の暗い気分にとざされていた。二人のあいだには怖ろしいような沈黙が暫くつづいた。
「先生はそれをどうお考えになっているのでしょう?」
理性一点張りの先生がそんなことを問題にしないのは判り切っていたが、それでもこの場合、わたしは念のために訊いてみると、奥さんは寂しくほほえんだ。
「良人《うち》は御存じの通りですから……。」
先生はゆうべ桐沢氏を訪問して、両者のあいだにどんな相談があったのか、わたしはそれを窺い知りたいと思ったが、それに就いては奥さんも詳しく知らないと言った。先生は元来が寡言《むくち》の方で、ふだんでも家庭上必要の用件以外には、あまり多く奥さんやお嬢さんと談話をまじえない習慣であるので、今度の問題についても深く語らないであろうことは、わたしにも大抵想像された。
しかし、あれほどに亢奮していた透が、もし不服があるならば桐沢氏に言えという先生の一言のもとに、素直に屈服してしまったのを見ると、かれら兄妹にまつわる何かの秘密を、桐沢氏に知られているので、彼も桐沢氏に対しては頭が上がらない事情があるらしい。奥さんもそんなような意見を洩らしていた。要するに、ここに何かの秘密があって、それを知っているものは兄の透と妹の多代子と、桐沢氏――と、まだほかにもあるかも知れないが、少なくともこの三人はその秘密を知っているに相違ない。それを問題にすると否とは別として、先生もおそらく知っているのであろう。この際、先生の口から聞き出すのが一番近道であるが、前に言ったようなわけで、それは所詮むずかしい。
「それでも無事に済んで、まあ結構でした。」
わたしはさし当りそんなことを言うのほかはなかった。奥さんはうなずいた。
「ええ、そうですよ。鎌倉の別荘ならば、桐沢さんの家の人たちもみんな行くのですから、多代子さんをやって置いても心配はありません。」
奥さんは午飯《ひるめし》を食って行けと勧めたが、わたしは出発前で忙がしいからと断わって帰った。その後、もう一度たずねたいと思いながら、いろいろの都合で私はとうとう先生に逢わずに東京を去ることになった。勿論、その事情を手紙にかいて先生宛に発送して置いたが、先生には当分逢われないかと思うと、なんだか名残り惜しくもあった。
わたしは二、三人の友達に送られて新橋駅を出発した。言うまでもなく、その頃はまだ東京駅などはなかったのである。汽車ちゅうには別に語ることもなく、わたしは神戸にいったん下車して、会社の支店に立寄った。そうして、その翌朝の七時ごろに神戸駅から山陽線に乗換えた。例によって三等の客車である。
わたしは少しく朝寝をしたので、発車まぎわに駈けつけて、転《ころ》げるように車内へ飛び込むと、乗客はかなりに混雑している。それでも隅の方に空席があるのを見つけて、私はあわててそこに腰をおろすと、隣りの乗客はふとその顔をあげて見返った。その刹那《せつな》に、わたしはなんとも言えない一種の戦慄《せんりつ》を感じたことを白状しなければならない。その乗客はかの三好透であった。
奥さんの話によれば、彼はすでに二、三日前に乗車した筈であるのに、何かの都合で遅れたのか、あるいは途中のどこかで下車したのか、いずれにしても、ここで偶然に私と席をならべることになったのである。
「やあ。あなたもお乗りでしたか。」
わたしは少しく吃《ども》りながら挨拶すると、彼も笑いながら会釈した。その顔は先夜と打って変って頗《すこぶ》る晴れやかに見えた。
「急に暑くなりました。」と、彼は馴れなれしく言った。
「そうです。俄か天気で暑くなりました。しかし梅雨《つゆ》もこれで晴れるでしょう。」と、わたしもだんだんに落着いて話し始めた。
彼はやはり二、三日前に東京を去ったのであるが、京都の親戚をたずねるために途中下車したと言って、京都見物の話などをして聞かせた。元来が温順の性質らしいが、さりとて寡言《むくち》というでもなく、陰鬱というでもなく、いかにも若々しいような調子で笑いながら話しつづけた。どう見ても、彼は一個の愛すべき青年である。これが一種の乱心であるとか、何かの祟り呪詛《のろい》を受けている人間であるとかいうような事は、どうしても私には考えられなかった。
「妹さんはどうなさいました。」と、私はなんにも知らない顔で訊いた。
「妹は東京に残って、鎌倉へ行くことになりました。
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