へ廻ろうと思っていたのであるが、会社へ出るとやはり何かの用に捉えられて、午前十一時ごろにようよう自由の身になった。きょうは何だか気が急《せ》くので、わたしは人車《くるま》に乗って根津へ駈けつけると、先生はもう学校へ出た留守であった。それは最初から予想していたので、わたしは二階へ通されて奥さんに会った。
「ゆうべはあれからどうなりました。」と、わたしはまず訊いた。
「あなたが帰ってから三十分ほどして、良人《うち》は帰って来ました。」
「透君はそれまで待っていたんですか。」
「待っていました。」と、奥さんはうなずいた。「それがおかしいのですよ。あなたも御承知の通り、透さんは大変な権幕で、あしたにも多代子さんを引摺って帰るような勢いでしたろう。ところが、良人が帰って来て、桐沢さんとこういう相談を決めて来たから、そう思いたまえ。もし不服ならば、桐沢さんのところへ行って何とでも言いたまえと言って聞かせると、透さんは急におとなしくなって、別に苦情らしいことも言わないで、そのまま無事に帰ってしまったのです。」
 奥さんが更に説明するところによると、先生は桐沢氏と相談の結果、この夏休みに多代子は帰省するのを見合せて、先生のお嬢さんと一緒に、桐沢氏の鎌倉の別荘へ転地することになったというのである。それはまことに穏当《おんとう》の解決であるが、あれほどに意気込んでいた兄の透がそれに対してなんの苦情も言わず、そのまま素直に承諾したのは、わたしにも少しく不思議に思われた。
「そこで、透君はどうするんです。」
「透さんは自分ひとりで帰るそうです。」と、奥さんは言った。「多分けさの汽車に乗ったでしょうよ。」
 わたしは奥さんにむかって、ゆうべの出来事を詳しく話して、多代子に生きた蛇を投げ付けたのも、多代子に脅迫状を送ったのも、兄の透の仕業であるらしいということを報告すると、奥さんは顔色を暗くした。
「ああ、そうですか。そんな事がないとも言えませんね。」
 定めて驚くかと思いのほか、奥さんもその事実をやや是認《ぜにん》しているらしい口振りであるので、わたしは意外に感じながら、黙ってその顔をながめていると、奥さんは溜息まじりで言い出した。
「こうなればお話をしますがね。あの透さんという人は、人間はまじめですし、勉強家ですし、学校の成績もよし、なんにも申分のない人なのですが、どういうわけだか自分の妹をひどく憎《にく》がるのです。」
「腹ちがいですか。」と、わたしは訊いた。
「いいえ、同じ阿母《おっか》さんで、ほんとうの兄妹《きょうだい》なのですが……。その癖、ふだんは仲好しで、妹をずいぶん可愛がっているようですが、時々に――まあ、発作的とでもいうのでしょうかね、無暗に妹が憎くなって、別になんという子細もないのに、多代子さんの髪の毛をつかんで引摺り廻したり、打《ぶ》ったり蹴《け》ったりするのです。自分でもたびたび後悔するそうですが、さあ憎くなったが最後どうしても我慢が出来なくなって、半分は夢中で乱暴をするのだそうです。それですから、わたしの家でも注意して、透さんが妹をたずねて来た時には、内々警戒しているくらいです。けれども、まさかに蛇を投込むなどとは思いも付きませんし、脅迫の手紙の筆蹟もまるで違っていましたから、他人の仕業だと思って警察へも届けたような訳ですが……。刑事がそう言うくらいでは、やっぱり透さんの仕業だったかも知れません。なにしろ一緒に帰さないで好うござんした。よもやとは思いますけれど、汽車のなかで不意に乱暴を始められたりしたら、大変ですからね。透さんも初めのうちはそれほどでもなかったのですが、一年増しに悪い癖が募《つの》って来るので、今に多代子さんは兄さんに殺されやしないかと、家の娘などは心配しているのです。」
 わたしにも訳が判らなくなった。わたしは医者でもなし、心理学者でもないから、三好透という青年の奇怪なる精神状態について、なんとも鑑定を下《くだ》すことは出来なかった。刑事の話によると、彼は他の婦人に対しても生きた蛇を投げ付けたことがあるらしい。勿論、確かに彼の仕業であるや否やは判らないが、もし果たしてそうであるとすれば、彼はおそらく一種の乱心《マニア》であろう。もし又、他人に対してはなんらの危害を加えず、単に妹に対してのみ乱暴や脅迫を加えるということであれば、それはやはり普通の乱心として解釈すべきものであるかどうかは、わたしにも見当が付かなかった。
「そうすると、透君がたびたび脅迫状をよこして、妹を根津権現前へよび出して、一体どうするつもりなんでしょう。」
「さあ。」と、奥さんも考えていた。「多代子さんがうっかり出て行ったら、おそらく何かの言いがかりでもして、往来なかでひどい目にでも逢わせるつもりでしたろう。今もいう通り、ふだんは仲好しの兄妹
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