奥さんは言う。わたしも勿論そのつもりであるので、そこに居据わっていろいろの話をはじめた。日露戦争後の満洲の噂も出た。そのうちに、奥さんはこんなことを言い出した。
「満洲と台湾とは、まるで土地も気候も違うでしょうけれど、知らない国へ行くと思いも付かないことに出逢うものですね。あなたも御存じでしょう、三好透さん……。あの人は飛んだことになりましてね。」
 旧い記憶が俄かにわたしの胸によみがえった。
「三好透……。あの多代子さんの兄さんでしょう。あの人がどうかしたんですか。」
「大学を卒業してから、台湾へ赴任したのですが、去年の六月、急に亡くなりました。」
「マラリアにでも罹《か》かったんですか。」
「いいえ。毒蛇のハブに咬まれて……。」
「ハブに咬まれて……。」
 わたしは物に魘《おそ》われたような心持で、奥さんの顔を見つめた。それを一種の不運とか奇禍《きか》とか言ってしまえばそれ迄であるが、マラリアに罹かったとか、蕃人に狙撃されたとか、水牛に襲われたとかいうのではなくして、彼が毒蛇のために生命《いのち》を奪われたということが、何かの因縁であるように私の魂をおびやかした。青い蛇の旧い記憶が又呼び起された。
「あの人は学生時代に、警察から尾行されていたようでしたが、その方はどうなったんです。」
「蛇をほうったという一件でしょう。」と、奥さんは言った。「あれは其のまま有耶無耶《うやむや》になってしまったようでした。」
「多代子さんばかりでなく、ほかの婦人にも投げ付けたというじゃありませんか。」
「それも透さんの仕業だかどうだか、確かな証拠も挙がらないので、警察でも手を着けることが出来なかったらしいのです。そんなわけで、無事に学校を出たのですけれど、台湾へ行くと直ぐにそんな事になってしまって……。まるで、台湾へ死にに行ったようなものでした。」
 世のなかに驚くべき暗合がしばしばあることは、私もよく知っている。三好透が台湾で毒蛇に咬まれたのも、しょせんは偶然の出来事で、一種の暗合であるかも知れない。したがって三好の兄妹と蛇と――それを結び付けて考えるのは、わたしの迷いであるかも知れない。しかもその迷いは私ばかりでなく奥さんの胸にも巣喰っているらしく、奥さんはやがてこう言い出した。
「いつかもお話し申した通り、三好さんの家には何かの呪詛《のろい》があるらしく思われてならないのです
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