いて、わたしも七月の初めには再び門司の支店へ帰ることになったので、先生のところへ暇乞いにゆくと、あいにくに今夜も先生は留守であった。梅雨《つゆ》のまだ明け切らない曇った宵である。こんな晩に先生はどこへ行かれたかと訊《たず》ねると、奥さんは小声で答えた。
「桐沢さんのところへ呼ばれて行ったのです。」
「桐沢さん……。」
「あなたも御存じでしょう。」
「お名前だけは承知しています。」と、わたしは言った。桐沢氏は知名の実業家で、その次男は大学の文科に籍を置いている。それが将来は先生のお嬢さんの婿になるという内約のあるらしいことは、わたしも薄々知っていた。そういう事情から、桐沢氏は多代子のような若い娘を自分の家にあずかって置くのは、先生夫婦の思惑もいかがという遠慮から、わざと自宅に寄宿させることを避けて、反対に彼女を先生のところへ預けることになったらしい。それは私も薄々察していたが、その桐沢という人にも、又その次男という人にも、これまで懸け違って一度も出逢ったことはなかったのである。
そういう訳であるから、外出嫌いの先生が今夜のような晩に桐沢氏を訪問したのも、別に怪しむにも足らないのであった。しかし、それを話す奥さんの顔色は余り晴れやかでなかった。
「なんだか変なことですね。」
「どういう事です。何か事件が出来《しゅったい》したんですか。」
「ええ。」と、奥さんはうなずいた。「また例の多代子さんのことで……。」
「また蛇でもぶつけられたんですか。」
「いいえ、そうじゃないのですが……。学校もやがて夏休みになるので、兄さんの透さんも帰省する。多代子さんも毎年一緒に帰るのですが、この夏に限って帰らないと言い出して、熱海か房州か、どこかの海岸へ行きたいと言うのです。郷里でも両親が待っているから、まあ帰れと兄さんが勧めるのですけれど、本人はどうしても忌《いや》だと言うのです。」
「なぜでしょう。」
「それはよく判りません。」と、奥さんは言った。「いくら本人が行きたいと言ったところで、若い娘たちをむやみに海岸の避暑地なぞへ出してやられるものではありません。誰か相当の者が付いて行かなければならないでしょう。兄さんでも一緒に行ってくれれば格別ですが、兄さんはどうしても帰省するという。妹は忌だという。といって、わたし達が付いて行くというわけにも行かず、まことに困ってしまうので、良人《うち
前へ
次へ
全29ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング