んの顔へ……きゃっ[#「きゃっ」に傍点]という騒ぎのうちに、相手は逃げてしまったのですが、なんでも横手の生垣《いけがき》を破って忍び込んだらしいのです。娘の話では、そのうしろ姿が若い学生らしかったということです。まだそれだけなら好いのですけれど、その後にたびたび多代子さんのところへ脅迫状をよこして、午後八時ごろまでに根津権現の表門前まで来てくれ、さもなければ、いつまでも蛇をもってお前を苦しめるからそう思え、というようなことが書いてあるのです。一度や二度は打っちゃって置きましたけれど余りたびたび重なるので、一応は警察へ届けて置く方がよかろうといって、良人《うち》はさっきから警察へ行っているのです。いずれ不良青年の仕業《しわざ》でしょうけれど、困ってしまいますよ。」
「けしからんことですな。それで多代子さんは寝ているんですか。」
「なんだか気分が悪いといって、二、三日前から学校を休んでいるのです。」
勿論、不良青年の仕業であろうが、その青年がもしや広島県のKの町の人間ではないかと、わたしは考えた。そうして、思わず口をすべらせた。
「多代子さんには蛇が祟《たた》っているようですな。」
「なぜです。」
奥さんにだんだん問い詰められて、私はとうとうあの汽車の一件を打明けると、奥さんはいよいよ顔の色を暗くした。
「まあ、そんな事があったのですか。なにかの心得になるかも知れませんから、良人《うち》にも一と通り話して置いて下さいよ。」
「いや、先生に話すと笑われます。」
そこへあたかも先生が帰って来て、その不良青年については警察でも、たいてい心当りがあるとの事であった。奥さんが頻《しき》りに催促するので、しょせん無駄だとは思いながら、わたしは再び先生の前で汽車中の一件を報告すると、果たして先生はただ冷やかに笑っていた。
「それは僕に話してもしようがない。小説家のところへでも行って話して聞かせる方が、よさそうだね。」
奥さんもわたしも、重ねていう術《すべ》がなかった。
三
それから五、六日経つと、多代子さんにいたずらをした不良青年が捕われたという新聞記事が見えたので、わたしはその晩すぐに先生の家を訪問すると、先生は誰かの洋行送別会に出席したといって留守であった。奥さんに会って、わたしは新聞記事の詳細を聞きただすと、奥さんはまず第一にこんなことを言い出した。
「
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