春の修善寺
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大仁《おおひと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)温泉|倶楽部《クラブ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]
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 十年ぶりで三島駅から大仁《おおひと》行の汽車に乗換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場駅附近を過ぎると、ここらももう院線の工事に着手しているらしく、路《みち》ばたの空地に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに顫《ふる》えている小さい竹藪は、折からの強い西風にふき煽《あお》られて、今にも折れるかとばかりに撓《たわ》みながら鳴っている。広い桑畑には時々小さい旋風をまき起して、黄竜のような砂の渦が汽車を目がけて直驀地《まっしぐら》に襲って来る。
 この如何《いか》にも暗い、寒い、すさまじい景色を窓から眺めながら運ばれてゆく私は、とても南の国へむかって旅をしているというのびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかには沼津の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸《あしたかまる》が駿河湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
 沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田に潜伏していたが、ある時なにかの動機から飜然悔悟した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいという。かれはすぐに下田の警察へ駆込んで過去の罪を自首したが、それはもう時效を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞きあわせると、当時の被害者は疾《と》うに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
 元来、彼は沼津の生れではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立して、自分の安心を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、いくらかの金を作った。彼はその金をふところにして彼の愛鷹丸に乗込むと、駿河の海は怒って暴れて、かれを乗せた愛鷹丸はヨナを乗せた船のように、ゆれて傾いた。しかも罪ある人ばかりでなく、乗組の大勢をも併せて海のなかへ投げ落としてしまった。彼は悪魚の腹にも葬られずに、数時間の後に引きあげられたが、彼はその金を懐ろにしたままで凍え死んでいた。
 これを話した人は、彼の死はその罪業の天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりであった。天はそれほどにむごいものであろうか――わたしは暗い心持でこの話を聴いていた。南条駅を過ぎる頃から、畑にも山にも寒そうな日の影すらも消えてしまって、ところどころにかの砂烟《すなけむり》が巻き※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《あが》っている。その黄《きいろ》い渦が今は仄白くみえるので、あたりがだんだんに薄暗くなって来たことが知られた。汽車の天井には旧式な灯の影がおぼつかなげに揺れている。この話が済むと、その人は外套の羽をかきあわせて、肩をすくめて黙ってしまった。私も黙っていた。
 三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い佗しい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。寒い風はまだ吹きやまないで、旅館の出迎えの男どもが振照す提灯《ちょうちん》の火のかげに、乗合馬車の馬のたてがみの顫えて乱れているのが見えた。わたしは風を恐れて自働車に乗った。

 修善寺の宿につくと、あくる日はすぐに指月ヶ岡にのぼって、頼家の墓に参詣《さんけい》した。わたしの戯曲『修禅寺物語』は、十年前の秋、この古い墓のまえに額《ぬか》ずいた時に私の頭に湧き出した産物である。この墓と会津の白虎隊の墓とはわたしに取って思い出が多い。その後、私はどう変ったか自分にはよく判らないが、頼家公の墓はよほど変っていた。
 その当時の日記によると、丘の裾には鰻屋が一軒あったばかりで、丘の周囲には殆《ほとん》ど人家がみえなかった。墓は小さい堂のなかに祀《まつ》られて、堂の軒には笹竜胆《ささりんどう》の紋を染めた紫の古びた幕が張り渡されていて、その紫の褪《さ》めかかった色がいかにも品の好い、しかも寂しい、さながら源氏の若い将軍の運命を象徴するかのように見えたのが、今もありありと私の眼に残っている。ところが、今度かさねて来てみると、堂はいつの間には取払われてしまって、懐しい紫の色はもう尋ねるよすがもなかった。なんの掩《おお》いをも有《も》たない古い墓は、新しい大きい石の柱に囲まれていた。色々の新しい建物が丘の中腹まで犇々《ひしひし》と押つめて来て、そのなかには遊芸稽古所などという看板も見えた。
 頼家公の墳墓の領域がだんだんと狭《せば》まってゆくのは、町がだんだんに繁昌してゆくしるしである。むらさきの古い色を懐しがる私は、町の運命になんの交渉も有たない、一個の旅人に過ぎない。十年前にくらべると、町は著るしく賑《にぎ》やかになった。多くの旅館は新築をしたのもある。建増しをしたのもある。温泉|倶楽部《クラブ》も出来た、劇場も出来た。こうして年ごとに発展してゆくこの町のまん中にさまよって、むかしの紫を偲んでいる一個の貧しい旅人のあることを、町の人たちは決して眼にも留めないであろう。わたしは冷《つめた》い墓と向い合ってしばらく黙って立っていた。
 それでも墓のまえには三束の線香が供えられて、その消えかかった灰が霜柱のあつい土の上に薄白くこぼれていた。日あたりが悪いので、黒い落葉がそこらに凍り着いていた。墓を拝して帰ろうとしてふと見かえると、入口の太い柱のそばに一つの箱が立っていた。箱の正面には「将軍源頼家おみくじ」と書いてあった。その傍の小さい穴の口には「一銭銅貨を入れると出ます」と書き添えてあった。
 源氏の将軍が預言者であったか、売卜者《ばいぼくしゃ》であったか、わたしは知らない。しかしこの町の人たちは、果して頼家公に霊あるものとしてこういうものを設けたのであろうか、あるいは湯治客の一種の慰みとして設けたのであろうか。わたしは試みに一銭銅貨を入れてみると、からからという音がして、下の口から小さく封じた活版刷の御神籤《おみくじ》が出た。あけて見ると、第五番凶とあった。わたしはそれが当然だと思った。将軍にもし霊あらば、どの御神籤にもみんな凶が出るに相違ないと思った。

 修禅寺はいつ詣《まい》っても感じのよい御寺である。寺といえばとかくに薄暗い湿っぽい感じがするものであるが、この御寺ばかりは高いところに在って、東南の日を一面にうけて、いかにも明るい爽かな感じをあたえるのがかえって雄大荘厳の趣を示している。衆生をじめじめした暗い穴へ引摺《ひきず》ってゆくのでなくて、赫灼《かくしゃく》たる光明を高く仰がしめるというような趣がいかにも尊げにみえる。
 きょうも明るい正午の日が大きい甍《いらか》を一面に照して、堂の家根に立っている幾匹の唐獅子の眼を光らせている。脚絆《きゃはん》を穿《は》いた老婆さんが正面の階段の下に腰をかけて、藍のように晴れ渡った空を仰いでいる。玩具の刀をさげた小児《こども》がお百度石に倚《よ》りかかっている。大きい桜の木の肌がつやつやと光っている。丘の下には桂川の水の音がきこえる。わたしは桜の咲く四月の頃にここへ来たいと思った。
 避寒の客が相当にあるとはいっても、正月ももう末に近いこの頃は修善寺の町も静で、宿の二階に坐っていると、きこえるものは桂川の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回|撞《つ》く。時刻をしらせるのではない、寺の勤行《ごんぎょう》の知《しら》せらしい。ほかの時はわたしも一々記憶していないが、夕方の五時だけは確かにおぼえている。それは修禅寺で五時の鐘をつき出すのを合図のように、町の電灯が一度に明るくなるからである。
 春の日もこの頃はまだ短い。四時をすこし過ぎると、山につつまれた町の上にはもう夕闇が降りて来て、桂川の水にも鼠色の靄《もや》がながれて薄暗くなる。河原に遊んでいる家鴨《あひる》の群の白い羽もおぼろになる。川沿いの旅館の二階の欄干にほしてある紅《あか》い夜具がだんだんに取込まれる。この時に、修禅寺の鐘の声が水にひびいて高くきこえると、旅館にも郵便局にも銀行にも商店にも、一度に電灯の花が明るく咲いて、町は俄《にわか》に夜のけしきを作って来る。旅館は一《ひ》としきり忙しくなる。大仁から客を運び込んでくる自働車や馬車や人力車の音がつづいて聞える。それが済むとまたひっそりと鎮まって、夜の町は水の音に占領されてしまう。二階の障子をあけて見渡すと、近い山々はみな一面の黒いかげになって、町の上には家々の湯の烟が白く迷っているばかりである。
 修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。それに注意するのはおそらく一山の僧たちだけで、町の人々の上にはなんの交渉もないらしい。しかし湯治客のうちにも、町の人のうちにも、色々の思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう。現にわたしが今泊っているこの室だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客がとまって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、色々の人が色々の思いでこの鐘を聴いたであろう。わたしが今無心に掻きまわしている古い灰の上にも、遣瀬《やるせ》ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。温泉場に来ているからといって、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にも色々の苦しい悲しい人間の魂が籠っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。
 修禅寺の夜の鐘は春の夜の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底から何物かを呼び出すかも知れない。宵《よい》っ張《ぱ》りの私もここへ来てからは、九時の鐘を聴かないうちに寝ることにした。[#地から1字上げ](大正七年一月)



底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「十番随筆」新作社
   1924(大正13)年4月初版発行
初出:「読売新聞」
   1918(大正7)年1月27日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※原題は「修善寺より」。
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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