国へむかって旅をしているというのびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかには沼津の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸《あしたかまる》が駿河湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田に潜伏していたが、ある時なにかの動機から飜然悔悟した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいという。かれはすぐに下田の警察へ駆込んで過去の罪を自首したが、それはもう時效を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞きあわせると、当時の被害者は疾《と》うに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
元来、彼は沼津の生れではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立して、自分の安心を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、いくらかの金を作った。彼はその金をふところにして彼の愛鷹丸に乗込むと、駿河の海は怒って暴れて
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