廃兵に逢った。その袖には赤十字の徽章《きしょう》をつけていた。宿に帰って主人から借りた修善寺案内記を読み、午後には東京へ送る書信二通をかいた。二時ごろ退屈して入浴。わたしの宿には当時七、八十人の滞在客があるはずであるが、日中のせいか広い風呂場には一人もみえなかった。菖蒲の湯を買切りにした料見になって、全身を湯に浸しながら、天然の岩を枕にして大の字に寝ころんでいると、好い心持を通り越して、すこし茫《ぼう》となった気味である。気つけに温泉二、三杯を飲んだ。
主人はきょうも来て、いろいろの面白い話をしてくれた。主人の去った後は読書。絶間なしに流れてゆく水の音に夜昼の別《わか》ちはないが、昼はやがて夜となった。食後散歩に出ると、行くともなしに、またもや頼家の方へ足が向く。なんだか執り着かれたような気もするのであった。墓の下の三洲園という蒲焼屋では三味線の音が騒がしくきこえる。頼家尊霊も今夜は定めて陽気に過ごさせ給うであろうと思いやると、我々が問い慰めるまでもないと理窟をつけて、墓へはまいらずに帰ることにした。あやなき闇のなかに湯の匂いのする町家の方へたどってゆくと、夜はようやく寒くなって、そこらの垣に機織虫《はたおりむし》が鳴いていた。
わたしの宿のうしろに寄席があって、これも同じ主人の所有である。草履《ぞうり》ばきの浴客が二、三人這入ってゆく。私もつづいて這入ろうかと思ったが、ビラをみると、一流うかれ節三河屋何某一座、これには少しく恐れをなして躊躇《ちゅうちょ》していると、雨がはらはらと降って来た。仰げば塔の峰の頂上から、蝦蟆《がま》のような黒雲が這い出している。いよいよ恐れて早々に宿へ逃げ帰った。
帰って机にむかえば、下の離れ座敷でまたもや義太夫が始まった。近所の宿でも三味線の音がきこえる。今夜はひどく賑《にぎや》かな晩である。十時入浴して座敷に帰ると、桂川も溢れるかと思うような大雨となった。
底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日第1刷発行
2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「十番随筆」新作社
1924(大正13)年4月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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