で、ある店に立ってゆで栗を買うと実に廉《やす》い。わたしばかりでなく、東京の客はみな驚くだろうと思われた。宿に帰って読書、障子の紙が二ヵ所ばかり裂けている。眼に立つほどの破れではないが、それにささやく風の音がややもすれば耳について、秋は寂しいものだとしみじみ思わせるうちに、宿の男が来て貼りかえてくれた。向座敷は障子をあけ放して、その縁側に若い女客が長い洗い髪を日に乾かしているのが、榎《えのき》の大樹を隔ててみえた。
 午後は読書に倦《う》んで肱枕《ひじまくら》を極《き》めているところへ宿の主人が来た。主人は善《よ》く語るので、おかげで退屈を忘れた。きょうも水の音に暮れてしまったので、電灯の下で夕飯をすませて、散歩がてら理髪店へゆく。大仁《おおひと》理髪組合の掲示をみると、理髪料十二銭、またその傍に附記して「ただし角刈とハイカラは二銭増しの事」とある。いわゆるハイカラなるものは、どこへ廻っても余計に金の要《い》ることと察せられた。店さきに張子の大きい達摩《だるま》を置いて、その片眼を白くしてあるのは、なにか願掛けでもしたのかと訊いたが、主人も職人も笑って答えなかった。楽隊の声が遠くきこえる。また例の活動写真の広告らしい。
 理髪店を出ると、もう八時をすぎていた。露の多い夜気は冷々と肌にしみて、水に落ちる家々の灯のかげは白くながれている。空には小さい星が降るかと思うばかりに一面に燦《きら》めいていた。宿に帰って入浴、九時を合図に寝床に這入ると、廊下で、「按摩は如何《いかが》さま」という声がきこえた。

     三

 二十八日。例に依って六時入浴。今朝は湯加減が殊《こと》によろしいように思われて身神《しんしん》爽快。天気もまた好い。朝飯もすみ、新聞もよみ終って、ふらりと宿を出た。
 月末に近づいたせいか、この頃は帰る人が一日増しに多くなった。大仁行の馬車は家々の客を運んでゆく。赤とんぼうが乱れ飛んで、冷たい秋の風は馬のたてがみを吹き、人の袂《たもと》を吹いている。宿の女どもは門に立ち、または途中まで見送って「御機嫌よろしゅう……来年もどうぞ」……など口々にいっている。歌によむ草枕、かりそめの旅とはいえど半月一月と居馴染《いなじ》めば、これもまた一種の別れである。涙|脆《もろ》い女客などは、朝夕|親《したし》んだ宿の女どもといい知れぬ名残の惜まれて、馬車の窓からいくたび
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