て頻《しき》りに鳴いていた。
 この時、この場合、何人も恍として鎌倉時代の人となるであろう。これを雨月物語式に綴れば、範頼の亡霊がここへ現れて、「汝、見よ。源氏の運も久しからじ」などと、恐ろしい呪いの声を放つところであろう。思いなしか、晴れた朝がまた陰《くも》って来た。
 拝し終って墓畔の茶店に休むと、おかみさんは大いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情として土地自慢は無理もないことである。とかくするあいだに空は再び晴れた。きのうまではフランネルに袷羽織《あわせばおり》を着るほどであったが、晴れると俄《にわか》にまた暑くなる。芭蕉翁は「木曾殿と背中あはせの寒さ哉」といったそうだが、わたしは蒲殿《かばどの》と背中あわせの暑さにおどろいて、羽織をぬぎに宿に帰ると、あたかも午前十時。
 午後東京へ送る書信二、三通を認《したた》めて、また入浴。欄干に倚《よ》って見あげると、東南に連なる塔の峰や観音山などが、きょうは俄かに押し寄せたように近く迫って、秋の青空が一層高く仰がれた。庭の柿の実はやや黄ばんで来た。真向うの下座敷では義太夫の三味線がきこえた。
 宿の主人が来て語る。主人は頗《すこぶ》る劇通であった。午後三時、再び出て修禅寺に参詣した。名刺を通じて古宝物の一覧を請うと、宝物は火災をおそれて倉庫に秘めてあるから容易に取出すことは出来ない。しかも、ここ両三日は法用で取込んでいるから、どうぞその後にお越し下されたいと慇懃《いんぎん》に断られた。去って日枝神社に詣でると、境内に老杉多く、あわれ幾百年を経たかと見えるのもあった。石段の下に修善寺駐在所がある。範頼が火を放って自害した真光院というのは、今の駐在所のあたりにあったといい伝えられている。して見ると、この老いたる杉のうちには、ほろびてゆく源氏の運命を眼のあたりに見たのもあろう。いわゆる故国は喬木《きょうぼく》あるの謂《いい》にあらずと、唐土の賢人はいったそうだが、やはり故国の喬木はなつかしい。
 挽物《ひきもの》細工の玩具などを買って帰ろうとすると、町の中ほどで赤い旗をたてた楽隊に行きあった。活動写真の広告である。山のふところに抱かれた町は早く暮れかかって、桂川の水のうえには薄い靄《もや》が這っている。修善寺通いの乗合馬車は、いそがしそうに鈴を鳴らして川下の方から駈けて来た。
 夜は机にむかって原稿な
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