は髪をふりかけ、直垂《ひたたれ》を着て長巻を持ち、手負《てお》いの体にて走り出で、門口に来たりて倒る。)
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春彦 や、誰やら表に……。
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(夫婦は走り寄りて扶《たす》け起し、庭さきに伴い入るれば、桂はまた倒れる。)
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春彦 これ、傷は浅うござりまするぞ。心を確かに持たせられい。
かつら (息もたゆげに)おお妹……。春彦どの……。父様はどこにじゃ。
夜叉王 や、なんと……。
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(夜叉王は怪しみて立ちよる。桂は顔をあげる。みなみな驚く。)
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春彦 や、侍衆《さむらいしゅう》とおもいのほか……。
夜叉王 おお、娘か。
かえで 姉さまか。
春彦 して、この体《てい》は……。
かつら 上様お風呂を召さるる折から、鎌倉勢が不意の夜討ち……。味方は小人数、必死にたたかう。女でこそあれこの桂も、御奉公はじめの御奉公納めに、この面《おもて》をつけてお身がわりと、早速《さそく》の分別……。月の暗きを幸いに打物とって庭におり立ち、左金吾頼家これにありと、呼ばわり呼ばわり走せ出づれば、むらがる敵は夜目遠目に、まことの上様ぞと心得て、うち洩《も》らさじと追っかくる。
夜叉王 さては上様お身替りと相成って、この面にて敵をあざむき、ここまで斬り抜けてまいったか。(血に染みたる仮面《めん》を取りてじっと視る)
春彦 われわれすらも侍衆と見あやまったほどなれば、敵のあざむかれたも無理ではあるまい。
かえで とは言うものの、あさましいこのお姿……。姉様死んで下さりまするな。(取り縋りて泣く)
かつら いや、いや。死んでも憾《うら》みはない。賤《しず》が伏屋《ふせや》でいたずらに、百年千年生きたとて何となろう。たとい半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]でも、将軍家のおそばに召し出され、若狭の局という名をも給わるからは、これで出世の望みもかのうた。死んでもわたしは本望じゃ。
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(云いかけて弱るを、春彦夫婦は介抱す。夜叉王は仮面をみつめて物言わず。以前の修禅寺の僧、頭より袈裟《けさ》をかぶりて逃げ来たる。)
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僧 大変じゃ、大変じゃ。かくもうて下され、隠もうてくだされ。(内に駈け入りて、桂を見てまたおどろく)やあ、ここにも手負いが…。おお、桂殿……。こなたもか。
かつら して、上様は……。
僧 お悼《いた》わしや、御最期じゃ。
かつら ええ。(這い起きてきっと視る)
僧 上様ばかりか、御家来衆も大方は斬り死……。わしらも傍杖《そばづえ》の怪我せぬうちと、命からがら逃げて来たのじゃ。
春彦 では、お身がわりの甲斐《かい》もなく……。
かえで ついにやみやみ御最期か。
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(桂は失望してまた倒る。楓は取りつきて叫ぶ。)
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かえで これ、姉さま。心を確かに……。のう、父様。姉さまが死にまするぞ。
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(今まで一心に仮面をみつめたる夜叉王、はじめて見かえる。)
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夜叉王 おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ。
かえで ええ。
夜叉王 幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸|神《しん》に入るとはこのことよ。伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう。(快げに笑う)
かつら (おなじく笑う)わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。ちっとも早う上様のおあとを慕うて、冥土《めいど》のおん供……。
夜叉王 やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。苦痛を堪《こら》えてしばらく待て。春彦、筆と紙を……。
春彦 はっ。
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(春彦は細工場に走り入りて、筆と紙などを持ち来たる。夜叉王は筆を執る。)
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夜叉王 娘、顔をみせい。
かつら あい。
[#ここから2字下げ]
(桂は春彦夫婦に扶けられて這いよる。夜叉王は筆を執りて、その顔を模写せんとす。僧は口のうちにて念仏す。)
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]――幕――
底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
1970(昭和45)年7月5日初版発行
初出:「文芸倶楽部」
1911(明治44)年1月
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2006年4月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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