代の大原君がかつて話してくれたので、僕は今その受け売りをするわけであるから、多少の聞き違いがあるかも知れない。その話は大体こうである。

 享保《きょうほう》十一年に八代将軍[#「八代将軍」は底本では「八大将軍」]吉宗は小金ヶ原で狩をしている。やはりその年のことであるというが、将軍の隅田川|御成《おなり》があった。僕も遠い昔のことはよく知らないが、二代将軍の頃には隅田川の堤《どて》を鷹狩の場所と定められて、そこには将軍の休息所として隅田川御殿というものが作られていたそうである。それが五代将軍綱吉の殺生禁断の時代に取毀《とりこわ》されて、その後は木母寺《もくぼじ》または弘福寺を将軍の休息所にあてていたということであるが、大原家の記録によると、木母寺を弘福寺に換えられたのは寛保二年のことであるというから、この話の享保時代にはまだ木母寺が将軍の休息所になっていたものと思われる。
 こんな考証は僕の畑にないことであるから、まずいい加減にしておいて、手っ取り早く本文《ほんもん》にとりかかると、このときの御成は四月の末というのであるから鷹狩ではない。木母寺のすこし先に御前畑というものがあって、そこ
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