脾腹から胸へかけて俄かに強く痛み出した。鯉か鱸か知れない魚に撲たれた痕が先刻からときどきに痛むのを、お供先では我慢していたのであるが、家へ帰って気がゆるんだせいか、この時いっそう強く痛んで来て、熱もすこし出たらしいので、かれは夕飯も食わずに寝床に転げ込んでしまった。家内のものは心配して医者を呼ぼうかと言ったが、あしたになれば癒るであろうとそのままにして寝ていると、その枕もとへ三上治太郎がたずねて来た。
「福井の奴が鐘を見たというのがどうも腑に落ちない。これから出直して行って、もう一度探ってみようと思うが、どうだ。」
 彼はこれから鐘ヶ淵へ引っ返して行って、その実否をたしかめるために、ふたたび淵の底にくぐり入ろうというのであった。大原はそんなことをするには及ばないといって再三止めた。またどうしてもそれを実行するとしても、なにも今夜にかぎったことではない。昼でさえも薄暗い淵の底に夜中くぐり入るのは、不便でもあり、危険でもある。天気のいい日を見定めて、白昼のことにしたらよかろうと注意したが、三上はそれが気になってならないから、どうしても今夜を過されないと言い張った。
「おれの見損じか、福井の見あやまりか。あるものか、ないものか。もう一度確かめて来なければ、どうしても気が済まない。貴公、この体では一緒に出られないか。」
「からだは痛む、熱は出る。しょせん今夜は一緒に行かれない。」と、大原は断った。
「では、おれひとりで行って来る。」
「どうしても今夜行くのか。」
「むむ、どうしても行く。」
 三上は強情に出て行った。
 その夜半《よなか》から大原の熱がいよいよ高くなって、ときどきに譫言《うわごと》をいうようにもなったので、家内の者も捨て置かれないので医者を呼んで来た。病人は熱の高いばかりでなく、紅とむらさきとの腫れあがった胸と脾腹が火傷《やけど》をしたように痛んで苦しんだ。それから三日ほどを夢うつつに暮らしているうちに、幸いにも熱もだんだんに下がって来て、からだの痛みも少し薄らいだ。五、六日の後にはようやく正気にかえって、寝床の上で粥《かゆ》ぐらいをすすれるようになった。
 家内のものは病人に秘していたが、大原はおいおい快方にむかうにつれて、かの鐘ヶ淵の水中に意外の椿事が出来《しゅったい》していたことを洩れ聞いた。三上はその夜帰って来ないので、家内の者も案じていると、あくる
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