女侠伝
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)西湖《せいこ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)秋雨|蕭々《しょうしょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)隠してしまったが[#「しまったが」は底本では「しまつたが」]、
−−

     一

 I君は語る。

 秋の雨のそぼ降る日である。わたしはK君と、シナの杭州、かの西湖《せいこ》のほとりの楼外楼《ろうがいろう》という飯館《はんかん》で、シナのひる飯を食い、シナの酒を飲んだ。のちに芥川龍之介氏の「支那游記」をよむと、同氏もここに画舫《がぼう》をつないで、槐《えんじゅ》の梧桐《ごとう》の下で西湖の水をながめながら、同じ飯館の老酒《ラオチュウ》をすすり、生姜煮《しょうがに》の鯉を食ったとしるされている。芥川氏の来たのは晩春の候で、槐や柳の青々した風景を叙してあるが、わたしがここに立寄ったのは、秋もようやく老いんとする頃で、梧桐はもちろん、槐にも柳にも物悲しい揺落《ようらく》の影を宿していた。
 わたし達も好きで雨の日を択《えら》んだわけではなかったが、ゆうべは杭州の旅館に泊って、きょうは西湖を遊覧する予定になっていたのであるから、空模様のすこし怪しいのを覚悟の上で、いわゆる画舫なるものに乗って出ると、果して細かい雨がほろほろと降りかかって来た。水を渡ってくる秋風も薄ら寒い。型のごとくに蘇小《そしょう》小の墳《ふん》、岳王《がくおう》の墓《ぼ》、それからそれへと見物ながらに参詣して、かの楼外楼の下に画舫をつないだ頃には、空はいよいよ陰《くも》って来た。さして強くも降らないが、雨はしとしとと降りしきっている。漢詩人ならば秋雨|蕭々《しょうしょう》とか何とか歌うべきところであろうが、我れわれ俗物は寒い方が身にしみて、早く酒でも飲むか、温かい物でも食うかしなければ凌がれないというので、船を出ると早々にかの飯館に飛込んでしまったのである。
 酒をのみ、肉を食って、やや落ちついた時にK君はおもむろに言い出した。
「君は上海で芝居をたびたび観たろうね。」
 わたしが芝居好きであることを知っているので、K君はこう言ったのである。私はすぐにうなずいた。
「観たよ。シナの芝居も最初はすこし勝手違いのようだが、たびたび観ていると自然におもしろくなるよ。」
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