警察へ駈け付ける。新聞社の前にあつまる。その周章と混乱はまったく予想以上でした。おそらく何処の土地でもそうであったでしょう。
 なにぶんにも交通不便の土地ですから、詳細のことが早く判らないので、町の青年団は岐阜まで出張して、刻々に新しい報告をもたらしてくる。こうして五、六日を過ぎるうちにまず大体の事情も判りました。それを待ちかねて町から続々上京する者がある。僕もどうしようかと考えたのですが、御承知の通り僕の郷里は中国で今度の震災にはほとんど無関係です。東京に親戚が二軒ありますが、いずれも山の手の郊外に住んでいるので、さしたる被害もないようです。してみると、何もそう急ぐにも及ばない。その上に自分はひどく疲労している。なにしろ震災の報知をきいて以来六日ばかりのあいだはほとんど一睡もしない、食い物も旨くない。東京の大部分が一朝にして灰燼に帰したかと思うと、ただむやみに神経が興奮して、まったく居ても立ってもいられないので、町の人たちと一緒になって毎日そこらを駈け廻っていた。その疲労が一度に打って出たとみえて、急にがっかりしてしまったのです。大体の模様もわかって、まず少しはおちついた訳ですけれども、夜はやっぱり眠られない。食慾も進まない。要するに一種の神経衰弱にかかったらしいのです。ついては、この矢さきに早々帰京して、震災直後の惨状を目撃するのは、いよいよ神経を傷つけるおそれがあるので、もう少しここに踏みとどまって、世間もやや静まり、自分の気も静まった頃に帰京する方が無事であろうと思ったので、無理におちついて九月のなかば頃まで飛騨の秋風に吹かれていたのでした。
 しかしどうも本当に落ち着いてはいられない。震災の実情がだんだんに詳しく判れば判るほど、神経が苛立《いらだ》ってくる。もう我慢が出来なくなったので、とうとう思い切って九月の十七日にここを発つことにしました。飛騨から東京へのぼるには、北陸線か、東海道線か、二つにひとつです。僕は東海道線を取ることにして、元来た道を引っ返して岐阜へ出ました。そうして、ともかくも汽車に乗ったのですが、なにしろ関西方面から満員の客を乗せてくるのですから、その混雑は大変、とてもお話にもならない始末で、富山から北陸線を取らなかったことを今更悔んで追っ付かない。別に荷物らしい物も持っていなかったのですが、からだ一つの置きどころにも困って、今にも圧《お
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