を洗い流して、ひどくさっぱりした気分になって、再び浴衣を着て入口の戸を内から明けようとすると、足の爪さきに何かさわるものがある。うつむいて透かして見ると、それは一つの指輪でした。
「誰かが落して行ったのだろう。」
風呂場に指輪を落したとか、置き忘れたとか、そんなことは別に珍らしくもないのですが、ここで僕をちょっと考えさせたのは、さっき僕の眼に映った若い女のことです。もちろん、それは一種の幻覚と信じているのですが、ちょうどその矢さきに若い女の所持品らしいこの指輪を見いだしたということが、なんだか子細ありげにも思われたのです。ただしそれはこっちの考え方にもよることで、幻覚は幻覚、指輪は指輪と全く別々に引き離してしまえば、なんにも考えることもないわけです。
僕はともかくもその指輪を拾い取って、もとの座敷へ帰ってくると、留守のあいだに二つの寝床を敷かせて、西田さんは床の上に坐っていました。
「やっぱり木曽ですね。九月でもふけると冷えますよ。」
「まったくです。」と、僕も寝床の上に坐りながら話し出しました。「風呂場でこんなものを拾ったのですが……。」
「拾いもの……なんです。お見せなさい。」
西田さんは手をのばして指輪をうけ取って、燈火《あかり》の下で打ち返して眺めていましたが、急に顔の色が変りました。
「これは風呂場で拾ったんですか。」
「そうです。」
「どうも不思議だ、これはわたしの総領娘の物です。」
僕はびっくりした。それはダイヤ入りの金の指輪で、形はありふれたものですが、裏に「みつ」と平仮名で小さく彫ってある。それが確かな証拠だと西田さんは説明しました。
「なにしろ風呂場へ行ってみましょう。」
西田さんは、すぐに起ちました。僕も無論ついて行きました。風呂場には誰もいません。そこらにも人の隠れている様子はありません。西田さんはさらに店の帳場へ行って、震災以来の宿帳をいちいち調査すると、前にもいう通り、ここの宿屋は近来ほとんど片商売のようになっているので、平生でも泊まりの人は少ない。ことに九月以来は休業同様で、ときどきに土地の青年団が案内してくる人たちを泊めるだけでした。それはみな東京の罹災者で、男女あわせて十組の宿泊客があったが、宿帳に記された住所姓名も年齢も西田さんの家族とは全然相違しているのです。念のために宿の女中たちにも聞きあわせたが、それらしい人相や風
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